さて、どうキャラを立てる?

「戯言使いのいーちゃん」が推理小説の形式に依存してるのと、作中で殺したり死んだりしてるキャラクターたちがキャラ立ちしてるのは、連携しているのだろう。ゲームであること、つまりは囲い込み、囲い込まれることでキャラ立ちする。そのような規定の囲いを形式や形式の自己言及で延命させることでしか独立した個であるような人格は成立しないという自覚のうちに、ヒロインのキャラクターに自己を投影するため言葉は放棄される。

 そして、個と小集団の相互維持の関係が固定されるような認識が、麻枝准的家族像とかゆってるもの、なのだと思う。父親が父親としての役割を遂行し、母親が母親としての役割を遂行し、子供が子供としての役割を遂行する、明確な役割分担のなされた集団。そこでは、子供としての役割を果たせない子供は子供ではない。成績が優秀とかそーゆーんでなく、ただ子供であることから疎外されてない子供とゆー、なんか奇妙な存在。

 んで、これは別に麻枝准オンリーの視界ではないと思う。ここでの役割ってのはスタンドアローンな個人てこと(個人であるような子供ってのも凄い話だが、観念的規定てのはえてしてそーゆーものだ)だから、<世界の秩序が強いる本質規定を逃れ、あらゆる「既知」への回収を拒んで、まだ見ぬ未来へ向けて自己造型してゆく「実存的」主人公である>http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=473384&log=20060917とゆー「リリカルなのは」における都築真紀もやってることはそんなに変わらない(それに対する自覚もあるように見受けられる)。サークルが壊れるとか壊れないとかを話題にしたがる価値観も似たようなもんだし、あるべき家庭の姿なんてのをお役所で議論してみせんのもそうだし。つか、そのへん転がってるドラマで要請される家族だ仲間だって大概そーゆーのじゃないか?

 まぁ、個々の問題は個々の現場で解決するしかないんで、あまり話を広げても仕方ない。
 とりあえず、優秀なキャラ立ち作品において、語りの基準となる主体のようなのは適当に韜晦してブレさせておくのが現在の手法の主流であり、プレイヤーと男性主人公のどっちつかずのブレた主体を獲得しえたビジュアルノベル以降のノベルエロゲーは、その点でキャラクタービジネスの中心たりうる優秀さを獲得していたと言える。
 つまらん結論だ。もうちっと何とかしたいが。