天気の子

特に何も引っかからなかったので書くこともないなあ、ぐらいの感覚だったのだがツィッタでの盛り上がりがすごい。何がどうして盛り上がっているのかがさっぱりわからない。

眺めていると、ゲームの映画化という与太話に代表されるように、映画内にない話題に入れ込んでいる感じで、それはなぜかといえば、映画に語るべきものを見いだせなかったので捏造せざるをえなかったということなんだろうが、この映画の空虚さを擁護しなければならない使命感というのが何処から来るのかが理解できない。

  • セカイが全く変わっていない件

オチ的には特にひねりもなくて、え、そんだけ、もうちょっと何かないのって思った。途中で解説から導かれる「天気を通常運行にするのに巫女が犠牲になる>巫女が犠牲になるのをストップさしたので天気が変わった」そんだけ。

ふつう、「僕らはこのセカイを変えた」という場合、その変更され革新されるセカイの法則というのはファンタジー要素なりSF要素なりを絡めて語られる「このセカイの秘密」のはずである。すごい兵器を操れる古代のラピュタというセカイの真実が明らかにされたら、僕たちはそのラピュタを秘密の言葉で解体することでセカイを変えるのである。

ところが、このセカイの真理についてはアンタッチャブルで映画は終わる。セカイ、ぜんぜん変わってないじゃん。むしろ妥協してセカイの法則に従ってるだけじゃんという感想になる。

  • 東京が水没したら何かすごいのか

あっはい。て感じだったので、何がそんなにみんなを駆り立ててるのかがホントにわからないんだけども。

映画の中で描かれる東京の街の風景、僕も見慣れてるし歩いたことあるとこばっかだが、単に知ってるというだけで感情を喚起されると言われてもなーという感想。

もとより登場人物が地に足ついてない(これは新海誠作品なので了解済み)し、東京の住人として存在感がない。映画って登場人物の生活する舞台はわりと無国籍だったり地域を特定しなかったりするもので、この映画も登場人物の作劇のムーブはほぼ地名や国籍から切り離された系統で、東京とか新宿とかの固有名詞を持った土地である意味はほぼ何もない。ニューヨークやロンドンや北京で代替可能だし、もっといや、ファンタジー世界の王都なんかでも話としては変わらない。話のあらすじとしてファンタジーなので、ファンタジー世界の架空の王都なんだろうなーという受け止め方のほうがむしろしっくりくる。というか、書いてて思ったが、水没する王都ってウインダリアじゃねーか(星を追う子どもなんかモチーフもろにウインダリアだ)。

ファンタジー世界の王都が滅びるぐらい普通によく見るのでまあそっすねという受け止め方になるのだが、そこに東京の風景が変わったからエモいという見方を持ち込まれても、東京という現実世界の具体的なモノと登場人物らの物語を結び付ける要素が皆無なので全く理解が追いつかない。昔「劇場版X」という映画で東京が片っ端から崩壊してくのだが人間が全然いなくって建物が崩れても下敷きになる人がおらず、なんて空虚な東京崩壊だと思ったもんだが。

  • 人とモノが交わらない、結び付かない

モノとヒトが交差しない新海誠である。風景にしか興味がなく人には一向に興味を示さない。これは最初からそうで全く変わらない。女の子がオタクの妄想っぽくてキモイとかいうレベルではなく、自分以外に人間なんか眼中に入ってないから自分語りのモノローグに尽きるのが新海誠の映像作品で、じゃあ何が見えているのかというと人間じゃなくて風景ですね映像ですねとシンプルだ。

つうわけで映像のなか、誰も人がいない。君の名はをラッセンに譬えた人がいたが最初からそういう作家さんで、ほしのこえはだから男と女は設定上は彼氏彼女っぽいが会わない。バーチャル彼女である。秒速で実際に会ったら「俺が求めていたのはリアル女なんかじゃなかった、脳内で美化された理想の彼女像こそが俺の求めるものだったのだ」と悟ってしまい、以後はどうするかというと、脳内妄想をどうやってリアル世界に降臨させるかと考え、宮崎アニメ世界の幼女を依り代に脳内彼女を具現化さそうとして失敗したりする。さすが俺たちの新海。

君の名はは想定外のヒットを飛ばしたのでまるで最初から大衆向けマイルドに作られたかのように今だと語られるが、あそこまでヒットするなんてさすがに誰も思ってないので新海性癖は100%投入されてるとみるべきだろう。つまりどうするか。脳内彼女が手に入らないなら自分が女の子になればいいじゃない、だ。男の意識で女の子になって、男の体で女の子の意識になって、そしてついに手に入れたぞ脳内彼女。最高だ新海。

しかし大ヒットしてしまった。しかも脳内彼女の入手に成功してしまって、もう目的は達成されてしまった。スッカラカンだ。もう何も欲しくないのか。うん。

  • セカイを変えたっていって、何が変わったのか

映画の中、ほんとに何もなくて、ちょっとびっくりする。背景美術はお手の物だがアニメの定石に寄せたら何も語らなくなってて、えっと、え、これでいいのってなる。映像作品として一般的に求められるクオリティーは格段に上がっているから本来は文句を言う筋合いではないのだが、それに何を語らせたいのかといったとき、何もない。風景を描いてるうちに何かが生じると思っていたのだろうが。

しかしそれでも変わるものは変わった。雲間の光を求めた少年と少女は、光なんかいらないと変わってしまった。セカイは変わり、少年はかつて求めたものを求めなくなった。何も変わってないと大人たちは言う。しかし僕らは確かに世界を変えてしまった。僕は、彼女は、晴れを求めなくなったのだ。それがセカイの法則から導き出される正しい選択だから。青春は終わり現実がやってきた。

  • 正しい映画

警官が出てくる意味が全くないのは周知。警官が必要な理由はといって、少年と少女の二人の生活の終焉の理由を彼ら自身の責任にしないため、それだけだ。

先日ツィッタで「エロゲに警官や児童相談所は存在しない」と書いたのはそういうことだ。彼女らエロゲヒロインは少女漫画の内面世界の構築を受け継ぎ、物語の主人公として、その世界のすべてについて責任を負っている。物語の主人公というのはそういう役割だ。主人公がその人格を介してモノやコトにあたることで、物語の聞き手はそのモノやコトが何であるかを知る。

主人公を介さないということは聞き手にとって既知で特に変更情報がないことを意味する。つまり唐突に介入する警察とは変わらない世界に他ならない。変わらないもの代表として警察が介入し、それにより二人は決定的に変わった。視聴者は主人公たちを介する必要はない、物語は必要なく、変化は不要。変わっているように見えるけど、雨はちっとも止まないけど、これは別に何も変わっちゃいないのだよ、オーケイ?

  • 幸福は義務です市民

義務です

京アニとか

なんか書いとくかなあと思ったが大して思い入れがない。

割と出会いが最悪というか、ほとんどの作品で引っかかって面倒くさくなるとこが多く、このまま神格化されたりした日には何も言えなくなるんだろうかという漠然としたもにょり感のほうが現状のところ死者への追悼気分よりか強い。

気軽にケチをつけられた頃が懐かしいといえば懐かしい。

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