現実と虚構

 こないだ、会社の中で「意識を高めるため」という何か微妙な理由で、算数の小テストみたいのをやって。歩合計算の実際例を文章題にしたやつだったんだけども、ほぼ全員が20点満点中の10点以下ぐらいなカンジだったんですが。

 自分、やっぱし文章題の解法の中身、見た目的には文章の書き方が切り替わった瞬間に引っ掛かりやすい。つーことは自分はこういうのの解き方をテンプレに任せてて頭に入ってなくて、未だに社内の実務に対する「算数」の応用が身体として出来てないんだなーという実感があったのね。現実と数字がどっかで結びつかずに切断されたままになってる、つーことはダメ営業ってことなんだけど。

 それと同じようなので、最初に振替伝票の書き方を説明されて眺めたとき、すごく文学臭のようなのに幻惑されたことがあって。あれ、左が現実(手持ちの現物)で右が虚構(信用)じゃない。左から右へと読んでいく横文字の文章形式から考えると、もう、あまりにもダイレクトな書き方でさ。この書式でもってアルファベットな横文字の世界の現実と虚構は組みあがってんだな、てなことを考えちゃったとき、もう自分の頭ってのはその書式の中の現実から切り離されちゃうわけでしょ。(関係ないけども、アラブ語圏の帳簿ってどうなってんだろう、もしも帳簿がアラブ起源で、右から左の書式に基づいて貸借対照表みたいのが考案されたんだとしたら、やっぱ商売人の世界だからなのかなぁ、みたいなことをつらつらと連想しちゃったりね。調べたことはありませんが)

 個人的には、現実と虚構の境目って、割と時々、そーゆー部分なわけですよ。だからなんかね、押井守麻枝准ので「現実と虚構がどーたら」とか「違う世界に連れてってくれる」ていう感想を見かけると違和感があるのね。虚構から連れ戻してくれるというか、バラけてる実感と理屈を結びつけてくれるようなのが、あーゆーのの役割であって欲しいわけで。なんか逆じゃねえの、と。