クラメルカガリ

「クラユカバ」と同じ監督。直接的なストーリーの連続などは特にない。

寺田農が出演しており末尾に追悼が捧げられている。アニメ声優としては遺作なのかもしれないが詳細は不明。

全体に宮崎アニメへのオマージュというか目配りがされており寺田農に出演を依頼したのも少なからずラピュタへの意識はあったと思われる。が、宮崎アニメと結びつけてしまうと対比的にアラが目立ってしまう感じ。高い塔と地上、さらには地下坑道の立体関係を意識した舞台だがあまり上下運動がなく立体物としての構造把握がわかりやすいとは言い難く、ほぼ機能してない。クラユカバは大正ロマンやスチーム?パンク感へ振ってるのでイメージの接続を幻燈的な漠然感で繋がってるものとして受け止めたし弁士の語り口調に統一感あるけど、こちらはハコニワという立体構築物にまとまりを預けてるので宮崎アニメを参照してるように見せると「まとまってなさ」が印象付けられてしまう。これクラメルカガリを先に見てクラユカバの順序で視聴してしまうとクラユカバの視聴体験まで足を引っ張られかねないのでは。

大前提として、宮崎アニメの上下移動はアニメーションの根幹である浮遊への意識から来てる。アニメーションは実写と違い、意識してないとモノが勝手に浮遊する。実際、今、作成され放映されてるアニメの半分ぐらいは重力が作用してない。安価なデジタル演出紙芝居で修正の手間すら省いているせいだが、アニメーションの歴史の初期の初期から「ほっとくと浮遊する」ことは当然ながら意識されてて、だから落ちる。浮遊が簡単に演出できる特性を生かして浮遊と落下の組み合わせをこそアニメーションという映像の独自性として発展させてきた。その延長に落差の拡大としての上下移動である落下と飛翔(登坂と駆け降り)の快楽があり、重力を意識しながら移動する縦長の構築物があり、その構造にストーリーを連動させることでアニメーション表現の根源的な独自性が作品全体と連携するというのが、ざっくり宮崎アニメの上下運動ということになる。

本作は、そのへんどうでもいいというか気にしてなさそうであり、気にしないこと自体は、今はアニメーションも色彩表現などCGの表現性能に根ざした演出を意識してけば別に上下運動とか言う必要も拘る必要もないと思うんだけど、それなら塔とか出さんでもいいのでは、虫を意識しなくてもいいのでは、宮崎アニメを意識しなくてもいいのでは、ハコニワとかわざわざ名付けなくてもいいのでは、と思わざるを得ない。実際、バラけたキャラクターたち、まとまってないし。

キャラクターは面白いのでまとめる方向性の問題かなー。わちゃわちゃしてる感は維持して欲しいのでスッキリ綺麗にまとめる方向には行って欲しくない。あと宮崎アニメを意識さすなら各キャラ何をどう食ってるのかな、てのは欲しかったかなあ。食ってるモノや食い方でキャラクターのバックグラウンド説明になるし向いてる意識の方向性がわかる、てのは宮崎アニメ要素の中でも今後も使える手ではあろうし。

あと声優はも少し面白い使い方して欲しかったかも。せっかく寺田農を連れてきたのは良かったけど佐倉綾音は手堅すぎる……いや黒沢ともよの使い方も手堅い使い方なのは同じなので好みの問題ではあろうけどしかし……。

なんか文句ばっか多くなったけど、も少し掘り下げたものが見たいという話です。