スタンドアローンであるようなキャラクター

 キャラクター単体が作品から切り離され独立した形でありうることが自明視されてる、というのが一つに言える。

 長森が、それまでの浩平の一人称を引き継いでエピローグで語れてしまうのは、キャラクターが語りから切り離されて成立していることを意味する。それが「作品の枠組内限定」であることを忘却しうるのは、一つに作品内のキャラクターが単体でキャラクターたりうる消費スタイルが成立しているからだ。それはエロという女の身体を追い求めるメディアスタイルや、同人のようなキャラクター利用の文化圏、ヒトが個でありうるような文学青年らの夢、ビジュアルノベルの形式などに成立根拠を求められる。ONEはそこに依存した。

 ギャルゲーヒロインがシステムに依存せずスタンドアローンであるというのは単なる幻想だ。前作の主人公を冒頭で殺して発売した『センチメンタルグラフィティ2』は前作のファンの多くに受け入れられなかった。ゲーム本体が発売される前、あれほどキャラクター商法の限りを尽くしたセンチのヒロインたちは、本家ストーリーが続くことを求められなかった。
 特定男性との恋愛物語という形のヒロインたち自身が主人公となる物語は一つしか存在しえず、アナザーストーリーはそれらから一つ位相のズレたところで展開していく。各ジャンルを越境していくヒロインたちの様相はしかし、作品内における作品からのヒロインの独立を保障しない。

 ちなみに「サクラ大戦」などヒロイン継投の場合、ヒロインごとの恋愛EDはなかったことにされるが、これが可能なのは戦闘パートなどの「本編」が別に存在するため。同様のことはRPGの主人公にも言えて、ランスシリーズは「ひとつの冒険が終わると怠けてレベルが下がり、武器も売り払うかしてなくなってしまう」という設定を付け足すことで同一主人公でのシリーズを成立させており、これはRPGストーリーテリングとは何かを端的に示している。

 話を戻すと、スタンドアローンのキャラクターの存在が自明であることで語りはその統一性から解放される。
 あるいは逆に、キャラクターの存在感を浮き彫りにするために、語りのブレが要請されると言える。例えば、何一つ頼れるもののない世界で一人称であることを自覚的に貫き通した水月ではヒロインは最早キャラクターではありえないが、キャラクターを基準としないような水月の読みはネットで見たことがない。