人の死のライトノベル的な量産体制について

 いったい、人の死のどうでもよさ、人の死を情感をもってたっぷり語ってみせるテンプレな嘆きについての胡散臭さ、等々を滔々と述べた作品の書き手が、その死のセンセーショナルな要素をもってテンプレ気味に語られることになろうとは、なんて嘆きについては、どうせいつものことではあるしと、おそらく死んだ当人も多少は予想しないではなかったろうが、まあ、誰かが言ってあげないといけないんじゃないかなと思うので、書きつけておく。

 さて、とっくに指摘されてるとおりメタルギアソリッドまんまですよなセカイを舞台の大冒険な本作はつまり「ゲーム小説」で、感覚操作のおかげで殺人についての実感が無いぜとゆーのはFPSでゲーム感覚で殺人してますよという話であり、自分のリアル身体を使ったリアル舞台な射的ゲームを遊んでるガキのメンタリティで語ってみせるとゆー代物だ。んで、ぼくは、ラノベとはゲーム体験を横目に眺めながら成立している小説ジャンルだと思っていて、虐殺器官はゲーム小説もしくはゲーム関連小説だからライトノベル括りですよ、となる。

 バーチャルリアリティなる代物とゲームとの違いは簡単で、ゲームであればバーチャルなモノにバーチャルなモノとしてそのまま価値が付与されてる。例えば仮想現実な技術でもって金塊などが再現されたとして、バーチャルリアリティの場合「現実の金塊と誤認」すると実際に価値が生じるわけだが、ゲームは「現実と別だと判っている」状態で、虚構の金塊に「ゲーム内における」価値が生じる。価値が先行して成立していて、その価値がゲームの外側に持ち出される(ギャンブルや、リアルマネートレードなど)というのが、「ゲーム」である。

 つまり、ゲームという巨大な虚構、巨大な物語の体系が出来上がった現状下、ゲームに隣接した形で小説が書かれた場合、ゲームにおいて出来上がった虚構の価値を持ち出すという順序でもって小説の中の虚構が語られるのが、ゲーム小説・ゲーム関連小説としてのラノベである。小説という虚構形態より先に虚構の価値が成立していて、それを誰もが虚構と知り前提として踏まえつつ、価値を共有し、それが小説内の虚構にそのまま持ち込まれている。人によってはメディアミックス的と言い換えるだろう。虐殺器官の中の虐殺というのは、なんぞ、そんな代物だ。最初から虚構としての虐殺であり、その、虚構の人の死に、人の死という価値がつけられている、そういう話である。