もうすこし突っ込んだ話になってくれますように

 彼らプロライターの物言いは、毎度のことながら物足りない。

 まず。

 ゲームというコトバで括られる代物に、物語が乗っかって語られているという状況は、捩れている。

 さらにもうひとつ、ポルノという媒体で一般的な小説や劇映画と同様の物語を十全に語れるとみなし、語ろうとしている状況は、捩れている。

 結果、ゲームで、かつポルノであるようなカタチで物語を語るという状況は、二つの捩れを積み重ねた先に成立している。

 上の二つは、既成事実の蓄積で引っ張っている。まずゲームと名づけたコンピューターメディアで「感動的なシナリオが書けるのだ」という状況を作り上げ。次に、その既成事実が疑われないうちに、そのような感動的なゲームシナリオの上に、「ポルノでも感動的なゲームシナリオは作れるのだ」という状況を作り上げた。それらは内容の吟味を伴う前に既成事実化されたという結果のみに支えられて存在している。

 さて。ユーザーとしては、結果が実在するのなら、それでいいのだが。

 ちょいと煮詰まって検証しようとすると、困ったことに、二つの捩れが積み重なっていることに目を向けるのは、大変めんどうくさい。

 たとえば、佐藤亜紀の、レイプレイ絡みのときの、GTAを誉めて日本産ゲームシナリオをくさす態度。これは、ポルノ批判にはなってるし、あるいは和製ゲームシナリオ批判にはなっている。が、ポルノでかつゲームな代物にシナリオを乗っけちゃう多重状況への批判になるには、捩れに対する認識がひとつ分ほど足りていない。まぁ、常識的な教養人は、そんな頭の悪い状況が成立しているなど理解しないし信じないだろう。考えるだけ無駄だと正しく判断して、うっちゃる。

 このように、大概の、良識的な文芸教養で判断しようとする人たちは、片方の捩れに着眼はするのだが、二重に捩れていることまでは、なかなか辿りついてくれない。

 その結果、そのような良識的な教養を駆使してシナリオを書く人と、そのような良識的な教養を駆使したシナリオを読んで良識的に評価する人のコンビは、毎度、どっちか片方の捩れを残したまま、片方を解決することで、解決した気になってしまい、その都度、半分だけ食い残す。んで次回の新作になると、食い残した半分に取り掛かろうとして、今度は、前回に解決したほうを食い残す。常識的な劇作品の系譜を引っ張ってきて適用させるためには捩れ二つを同時に解決しないといけないのだが、なかなかそうならないのである。教養なんぞ捨てちゃえばいいのにね。