四畳半神話アニメ

 むかし、イーガンとかのSFので感じたウザさであった。

 まあつまり、ヒロイン格の女性を出すには出すのだが、それはあくまで主人公の「男らしい」「主体性のある」行動を引き立てるための飾りなのである。なんか男勝りに主体的っぽく理性を撒き散らす言動な女性が主人公をやり込めたりツッコミを入れたりするのだが、しかしそれはどっかで間違ってたり実はか弱かったり見当違いだったり単に見栄えのする飾りで置いてあるだけだったりして、男がオレサマ頑張ったぜ行動したぜ結果を出したぜ、というのを引き立てる。女が間違って行動してるとゆーところを確認してそれを修正できる正しさを男が身に付けていることが証明される、という。うっぜー。フェミ批評を待つまでもなくうっぜー。

 坂本真綾なんぞ出さなければいいのである。バインバインのお色気攻撃すら他の女性陣にまかせっぱなし、下半身的な欲望に従事してない安全圏の女性、視聴者寄せパンダ役をおおっぴらに見せびらかすでもない上半身フォローの作り。そんな都合のいい女を最初からキープだとゆーのだから、小賢しさが鼻につくことおびただしい。主人公は一度だって明石さんのために走ったりしないのだ。だったら女なんか出すな。最初から男だけでやれ。これみよがしにボンドガールなお飾り女性陣でギラギラにしとけ。ジョニー出したり全裸ったりしながら結局一度もパンツ脱がずに終わらせやがって。男のストリップで肝心なとこみせずに終劇とか、客なめんな。

 こーゆー鬱陶しい自意識語りと自己弁護と形式主義への堕落の三色極甘ロールケーキへの批判・カウンターとして、成就した恋をひたすらダラダラ語る形式であるところのギャルゲーとその眷属が必要とされたのである。偏差値の高い娘を引き立て役に使う権威主義に対抗すべく、ポンコツ痴女なヒロインが見出されたのである。けして逆ではないのだ。

 世代は交替し、そうしたイチャイチャゴロゴロする「だけ」であることの正当性・超絶天然ボケを撒き散らすことこの上ないヒロインを愛することの根拠を見出せない層が増え(トノイケがイチャイチャごろごろ「だけ」だ、とゆーたらシナリオが判ってない、とか言い出すのである)、ギャルゲー的と名指されたスケープゴートを批判しとけばなんか社会性が快復できると信じてしまえるわかりやすい自己実現の方程式が亡霊のように黄泉がえり跋扈する。そんな世相に対抗していくべく、坂本真綾にパンツどころか魂まで毟られてく『M〜君を伝えて〜』をせめてもの拠り所に、僕たちは生きる。