「けいおん!!」7話について

 昔、ヒガシの人がNHK教育で自説の監視社会の到来について話したことがありまして。
 そんとき司会をしてた手塚眞手塚治虫の長男)が「けど、私なんかは父が治虫ですから、周囲から視線を向けられることが、自分の意思によらずずっとあって、そういうなかで、こうして仕事したりTVに出たりしてるわけです。それと、どう違うんですか。なにがいけないんですか」といった趣旨のツッコミをしたときに、ヒガシの人は「え、だって、監視されるって、なんとなくヤじゃないですか」みたいな、「教養人の肩書き持ちとしては何とも情けない<こども>の逃げ」をしどろもどろに述べて、なんとなくうやむやで話題終了、というのがありまして。

 TVのハルヒがね、あんだけ大騒ぎして派手な真似をして、それでもなお、その声が届く範囲は限られていて、商店街のおっさんに名前を覚えてもらえない、なんて話題もありましたが。バニーガールやってもバンドやっても全ての視線がハルヒに集中したりはしない、というのは、一方で子どもであり続けること、救いでもあって。でも、じゃあ、見られることって、どうなん。

けいおん!!」は1、2、4〜9話まで、みました。

 最初から「卒業」を巡る話で、それぞれに、お題を割り振ってるのはまぁ、判るんです。ギターを「もう弾かないから」といって売ったり、修学旅行で3年生がいなくなった学園を描いたり。それぞれの題材を、なんかわりと散漫に、とりたてて話をまとめる気のないように好きにやってて、作り方としては割りと自由な作り方かなあ、と見えなくもない、というか、1期と違って予算増えてスタッフも増えてるだろうし、原作ネタも少ないだろうから、そーゆー作り方なんだろーなー、と思ってたのですが。

 むしろ、それでいいんだと思えたのが7話「お茶会!」だったのでした。 

 学園が、軽音部が、唯たちの過ごしている現在であるならば、卒業ってナニ、なんてこたー、言えるわきゃあない。語りえない未来、あるいは、軽音部で過ごす日々を生と呼ぶなら、卒業は当然、死のメタファーだったりするんだろうけども、死後の、彼岸のことなんざ、語りえない他者性として示されるしかないわけです。

 けど、だからって全く想像できないわけでも、類推しちゃいけないわけでも、ないよね。あるいは、まるきり他人の話を信じるでも信じないでもなく、ちょっと乗っかってみるぐらいの、メープルハチミツ和三盆ほどに甘ったるい考え方であっても。

 とても、いい話でした。