賭け事との距離感

 先日の、RPGの快楽の源泉は何か、という話。

 戦闘だレベルアップだの諸問題は、今回はおいておき、ゲームと賭け事との間に関係が失われてしまったことについて書く。

 ギャンブルとゲームは、それなりに不可分なのは誰もが知っている。その上で、その不可分な関係を切り離そうとするとき、「こどもの遊び」という提案がなされる。こどもの遊びという「根源」からみたとき、賭け事の要素は後付けで、たとえば既存の「遊びの分類」や「遊びの定義」においても、さほど強い意味をなさない。

 だが、賭ける行為と全く切り離されてしまったゲーム業界というのが、かなり特殊な状況であることも、間違いない。

 ならば、RMTが成立するような金銭といくばくか結びついた状態こそが、ゲームの状態が安定していると仮定することも、さほど的を外してはいないだろう。RMTで起きたトラブルは、本来なら起きるはずのトラブルではなく、たとえばRPGという形式の欠陥を批評的な意味で指摘された結果だとみなせるのではないか。RMTが成立しうる条件を満たした途端にRMTが発生した、その条件部分について、指摘できるのではないか。

 剣乃は、YU-NOのシナリオテキストはダンジョンマップのテクスチャだと言った。しかし、それはどのゲームのシナリオについても言えることだ。システム上で行き止まりと指定した部分に、見た目をごまかすために、テクスチャを貼る。ゲームのシナリオには、そういう、ぶちあたる壁を理不尽と感じさせないためのクッション、説得の意味合いがある。言葉の厚みの一面を利用して、プレイヤーを柔らかく受け止める。しかし一方で、言葉の、限りないはずの奥行きには限りが設けられている。それ以上先には進めない行き止まりが待ち構えている。その意味で、シナリオの言葉はルール説明の延長だ。言葉の先には否応なく語の定義が待ち構え、読解を拒絶する頑なさを抱え込んでいる。シナリオの言葉を分け入った先には、いわば「あがり」が用意されている。ゲームのシナリオライター語りは、そうした「あがり」と結びつく。そうでなければ、「ゲーム」は、数多にある読み方のうちの、特定の文章の流れをこそ正しい道筋として判断する根拠は、成立しない。

 金を賭けることは、その、奥底の頑なさをトレードさせるのではないか。