いいかげんおわらさんと

 ICO話のほう。ちょっとはしょります。

 長々と引っ張りすぎたが、引用するようなチュートリアリズムというコトバの導入だけだといろいろなノイズが混ざってくるが、井上氏はそれらを取り除いてゲーム作品のみから抽出しうるようなもっとも限定された要素としての「チュートリアリズム」を探り出そうとしている。例えば極端な例、ゲームに習熟していく過程であっても、攻略本を読んで敵モンスターのパラメータをおぼえていくような部分については排除されるし、同ジャンルの他ゲームをプレイすることで得たゲーム体験も除外されるだろう。まずもってゲームの作品性を抽出するための手段として見据えられる。さらには、パックマンやインベーダー(さらにはゲーセン版の単なるマリオブラザーズも)のような、1面、2面・・・といった「面クリア」形式も、それぞれの面と面を結ぶ接続詞がみえないために、つまり「ひとつの作品」としてのまとまりを訴えきれないがために、ノイズとして扱われるはずである。だから強制・半強制のスクロール形式のスーマリゼビウスが例示に使われる。

 だから、今さらICOの話、となる。ここ10年で話題になったゲームのうちでも、特定のジャンル文脈やシナリオテキストに依存せず(何しろゲーム内では言葉が殆ど通じない)、なおかつ「作品」と呼びうる硬質な完成度やデザインを備えている稀有な例だから。

 このセレクトについては、井上氏の思惑だろう作品性と結びつくような形でのチュートリアリズムの抽出は、いったいどこまで普遍性を獲得しうるのか、とゆーあたりが議論の対象になりそうな気がする。井上氏の路線は本人が意識してるとおり、そのゲームはいったいツール(道具)なのかアート(作品)なのかとゆー問いと不可分だからだ。とりあえず氏にはもし未読ならば<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B002U842FO/">『ソリッドファイター完全版』</a>をおすすめしたいとゆーか読め。

 まぁ、おそらく意図して「チュートリアリズム」をひとつふたつ捩れさせることで使用しているので、海のむこうの論者とは噛み合わないだろうし、おそらくそこんとこでローカリズムというか井上氏の論者としての作家性みたいのが出ちゃうんじゃないかなぁ(それはそれで素敵だ)というあたりを、どう乗り越えて議論として連結させるかなのだけども。

 基本的には作品批評で繋ぎたいという意図で長々と書いてみた。