エロの有無 その2

 エロありだから何でもできる、てのはTRPGが何でもできる並に嘘っぱちで、ごく当り前に出来ることと出来ないことがある。

 その判断が狂ったのがエロゲでの「必然性のあるエロ」という奇妙な言葉に代表される性描写の偏りで、そうした偏りの背景にロリコン美少女の絵柄の影響があるのは避けて通れない話題ではある。劇画調にすれば問題解決といった話ではなく、そういう二項対立を生み出してしまう理想の人体みたいな概念の強さね。

「必然性のあるエロ」が叫ばれたのはエロゲ文化圏をコンシューマーのゲームから分離させたいという思惑からだし、なぜコンシューマーのゲームからエロゲを分離させたい思惑が生じるかといえば、エロゲしか語りたくない人たちがいるからだが。鬼畜と純愛という二極分化でシナリオ分類が成立するという発想もWindows以降、ビジュアルノベル(というより『 ToHeart 』)成立以降、もしくはサターンやPSでの表現規制以降、だ。当然ながら脱衣麻雀や脱衣シューティングあたりは排除される。

 エロゲに文芸評論の枠組みを持ち込みたがる人たちの視野からはシナリオやテキストが先行する枠組みとして映るわけだが、そこで見失われるのが絵柄としてのロリコンとそれに結びついた無性的な理想の人体であり。そのロリ絵の中に体現されてたヒトのイデアの帰属先が見失われたときにスルッと紛れ込んできた一つが元長柾木のイデオローグになる。ロリコン絵柄の立ち絵をその由来から切り離して新たに無垢なヒトの原型にしよう、という。だから「立ち絵の芝居となるノベルゲームは演劇的である」という言葉も出てくるわけだが。

 この種の「本格主義」みたいのは、ぶっちゃけ「社会派」が対立軸として機能してくれてるのに依存してると見ていい。だからKeyを「社会派」みたいな立場から批判してもKeyの存在を「本格主義」として正当化することにしか繋がらない。そうしてノベル系のエロゲの中の「純愛(=本格=感動=シナリオ一本道)」対「鬼畜・陵辱(=社会派=アイロニー=ゲーム性重視)」という対立軸の中で現実とやらが適当に弄ばれたりすることになる。ここでの現実は、もちろん誰からも非難されないような常識的で無難な「現実」であり。

 そうした二項対立やエロ縛りからの脱却として「あってもなくても変わらないけど、あると嬉しいエロシーン」があったはずなんだけども。