『筑波批評』2009あるいは2010冬(充電中)掲載評論 高橋志行「跳躍するヒロイズム」について

この項目と関連するように見受けられたので言及をくっつけときます。

論旨についてはしょった説明をすると、ウォーシミュレーションという「人間の集団での戦い」を再現していたジャンルから派生したRPGについて、

取り扱う単位が「キャラクター個人」のままでありながら、個人が介入可能な状況の範囲が徐々に拡大していき、やがて「一騎当千」と呼びうるような戦力、あるいは社会的権力を持つに至る。こうした英雄譚的な一連の流れをゲームデザインで表現できるようにしたのが、D&Dである。そのように位置づけることができる。

というふうに書いておりまして、んで個人の活躍が世界を変革しうるようなゲームデザインとゆーことで、ロマサガ2について歴代皇帝が皇帝のくせに前線(とゆーかダンジョンで大冒険)で戦ってることの是非とか、あるいはガンパレ絢爛舞踏だったり世界イコール九州の一都市でしかなかったり、とかそういう話をしてます。

突っ込みたいところは多いと思います。ミニチュアゲームというかアクチュアルゲーム*1って言えよとか、アップフロント*2はどうした、とか。が、そのへんは枝葉末節ということで、置いておきましょう。

気になるのはやはり、「D&Dゲームデザイン上の革命だったとしても、それがそのまま英雄的すなわち個人が「主人公」であり作品世界の体現であることと、結びつきうるのか、ですよね。俺個人としては例外はいろいろ思いつくので(たとえばテーブルトークRPGであってもキャラを同時に二人以上受け持ったりするのは、よくある。つまり、キャラクターが純粋にスキルや戦力としてのみ要求される)、レベルアップという仕組みのみが英雄譚への道を切り開いたというふうには単純に結びつけられないと思います。たとえばですが、「個人で遊ぶ」という遊び方を可能にしたコンピューターゲームという形式と結びついたことの重要性は指摘できるでしょうし、その際にはレベルアップのシステムと同じ以上に、アクションゲームの形式について気にかけるべきじゃないかと思います。議論の余地はかなりあるでしょう。

ですが、論旨の一番の要点である、ゲームプレイ中に「個人」が極端にクローズアップされることが実は例外的なことであり、「ゲーム表現」を考える上で重要だろう、という指摘は非常に鋭いんじゃないかな、と。たとえばFPSを考察するための手がかりにもなりうるはずです。

*1:参考にならない参考http://bit.ly/eTuuBq

*2:紹介記事http://chiharakai2005.at.webry.info/200607/article_1.htmlカードゲームの名作。兵士1名ごとのカードを組み合わせて部隊を編成する。つおいキャラはガンダウルフなんぞ屁で吹き飛ばすくらいにつおい