伊藤計劃以後とか

前から落書き的に書いてたことではあるが、なんか見かけるたびモヤっとするので吐き出して気楽になっとこうという主旨の文章。
 
コレ https://note.mu/maezimas/n/n0217032ae0b0 見て、ボンクラ部分が素敵というタイトルはオッと思ったのだが政治的な事情なんだろうけど思想家とか天才とか持ち上げワードを突っ込みつつの「一方で」みたいに切り離してて、俺は初読時から虐殺器官は全編がボンクラ一色だと思ってたので逆に不満が溜まった。
僕が読んだ虐殺器官というのは「ゲーマーがやりこみ度が過ぎてリアル戦場に飛び込んでFPSゲーに興じる話」である。
主人公は戦場では肉体改造の度が過ぎてあり得ない運動能力をほこるスーパー戦士となっていて、使う武器その他も夢のスーパー兵器であり、その戦闘力とカッコイイ超兵器でゲーム内でしかありえないような特殊な秘密任務をこなしてる。そして、そのスーパーな肉体と兵器をより正確精密に扱うためという理屈によって、現実から一定の距離を置いたとこで判断できるよう、本人の精神は現場の戦場から切り離されたとこで自分の身体をゲームのキャラを操作するみたいにして操作する。
現実ではアメリカ本土で無人兵器を操作して「ゲーム感覚みたいに」戦争に参加してて、そのアナロジーの側面もあろうが、それによって実現されてるのは「現実の戦場で、現実の自分の肉体を使って、超リアルなFPSゲーに興じてる僕」というシチュエーションだ。
主人公自宅の自堕落シーンは「平穏なお茶の間でジャンクフード食いながらTV見てるノリのまま超リアルなゲームとして戦場を楽しんでる」というシチュの説明であり、その上で、超リアルなゲームで無双プレイを楽しんできたけど、そろそろゲームにも飽きてきてダルくなってるのの説明だ。小説が出たての時に虐殺言語とゆーガジェットで盛り上がる人たちがいたが、あの話においてミームだかは飽きたゲームを終わらすリセットボタンの役目にすぎない。途中の戦闘シチュが「こんなんありえねーよゲームネタだからってゲームすぎんだろ」というツッコミも「いや現実という素材を使ったゲームを遊んでるんだから」としかならない。
あの小説で大事なのは「超リアルなFPSで僕ちゃん無双」「ゲームのためなら自分の肉体だってリアル戦場だって消費しちゃうぜ」「やっぱリアルはクソゲー」「クソゲーもう飽きたんでリセットボタン押して終わらす(そんで人類滅亡)」という星新一だったらショート数ページで終わるノリに心底浸ってるボンクラ感であり、「リセットボタンがどうとかゲーム脳の恐怖で煽ってる連中にホントのゲーム脳の恐怖を教えてやんよ」という諧謔であり、「『現実とゲーム(ネット)の区別がつかなくなる』って言うけど、俺ら的にはそんなんとっくに通り過ぎてんですけどー」という凄くシンプルな自己申告であり、なんつうか上のリンクでいう「ボンクラネタ」の抽出は、逆にそういうボンクラ感を見えなくさせてるようでニントモ。
 
さてハーモニーはつまんなかったし失敗してたので放置するとして、本人が死んじゃった後に出てきた「伊藤計劃以後」である。俺はこの言葉を言い出した人や雑誌や特集や論者が何を述べてるか読んでないし知らないが、この言葉で説明できそうな状況というのは思いつく。
 
伊藤計劃以後」の条件は二つ。作家がネット上で先行して支持されてること。ネットもしくはゲームを題材にしてること。まあ、つまり、「なろう小説」界隈こそが「伊藤計劃以後」だろう。たぶん間にソードアートオンラインの出版成功とかが入ってくる。
 
簡単に。伊藤計劃は作家デビュー前にネット上でブロガーとして支持されており、作品も一定以上の水準を持ってたにしても、まず何よりブロガーとしての知名度によってネット上で支持をブーストさせた。さらに、ブロガー経歴とも関わる話だが、そういう「バーチャル空間と現実の区別がつかない」という自身の出自とリンクする素材で書いた。伊藤が「それ以前」から一歩先に進んだのは主に後ろの要素だろう。
電車男は「現実と虚構の区別がつかない」という要素を出自として持っていたが中身はフツーの話だった。ゲームライター出自の奈須きのことかも同様。
伊藤が、まあ死んじゃった補正はあるにしても名前として残ったというのは、ソーシャルメディア出自の作家とゲームネタ・ネットネタ(バーチャルというコトバでいえば一言で済むが)という作品のセット具合が良かったのである。つまり、素材としてはファンタジーだけど、軍事用語ネタだけど、SFガジェットだけど、だけどだけどだけど、「俺らの体験してきたリアルの話(ゲームの中でだけど!)」だ、という混ざってます具合が伊藤計劃という名前に込められてたんだろう。神林長平の追悼短編でSNSから浮かび上がってくる伊藤計劃という切り口は、やっぱ絶妙だったと思う。
 
さて。ソーシャルメディアから出版へという仕組み自体は以前からあったにせよ、いよいよもって「ソーシャルメディア上で支持されてれば商業的にペイする時代になった」とゆー判断が出版側でなされ、ネット上で支持されてる公開小説が発掘される流れが加速し「なろう小説出版ブーム」あたりに繋がった。ネット上で受けるのは「俺ら的に身近な素材」であり、つまり、ネットでありゲームであり、ゲーム的なファンタジー世界へのダイビング体験とかになる。
俺がなんでこういう話をするかというと、ここんとこ俺の近所にも流れてくるラノベ談義やなろう小説談義というのが、たぶん「伊藤計劃以後」的なセンスへのバッシングが背景としてあるんじゃないかと思うのである。
今どきはファンタジー、SF、軍事ネタ、どんなガジェットであれ、目新しさの側には所属していない。ネット経由、なろう経由として、僕のふだん眺めてる周辺まで漂ってくるその手の素材は「既知」のニュアンスでもって誘ってくる。
その手の話は、おそらく実際に読めば読んだで常に新しい切り口が用意されてる。けどもSNS上では新しいとダメだ。判りやすい見出し、惹句とは「もう知ってる」という感覚に訴えないとしょうがない。そこに齟齬がある。SNSでは何もかもが既知に、古めかしい素材に、新鮮味のない馴染み深さの側に訴えかける。
およそ扱われてるガジェットについて、「未知」と「既知」の認識が、「伊藤計劃以前」と「伊藤計劃以後」でズレてしまってる。「未知」が大好きなSF作家さんらの老害発言が目立つというのは、そのズレを受け止めかねてるのだろう。
 
とまあ、ろくに読みもしない話に適当に首を突っ込んだが、いつものことで雑な雑感なのであまり本気にしないように。なるたけこの落書きが読まれませんように。
 
さておき伊藤計劃だが、「なろう」自体はまあ別に普通に続くんだろうけど、さておき話は変わって、いいかげん「伊藤計劃以後」も終わろうとしてる。こっちの「伊藤計劃以後」は作家さんとしての伊藤の話な。用語がいい加減でゴメン。
なんせ、本人が死んだのは「アラブの春」より以前でさ。ネットの動向も世界の動向もだいぶ変わった。ダークナイトで盛り上がってた程度の時代から既に10年が過ぎ、ダークナイトジョーカーは気が付けばだいぶ小物っぽくなった。困ったことにDCのシリーズは時代に敏感に反応しててダークナイトライズもBvSも実によく時代についていってる(マーベルはドンドン浮世離れして神話ファンタジー化してく。まあうんエンタメだし)のだが、時代を読んでる結果としてジョーカーみたいな「雰囲気凄いヤバい邪悪」は成立せず、絶妙に現代的なルーサーが出てきちゃって、その小物ぶりが嫌気されてたりする。
ハーモニーは漫画版の絵師が気になってるので読んでるが、あまりの無邪気なユートピアディストピアぶりには「なんと羨ましい。俺もこうやって管理社会で管理されたい」という感想しか湧いてこない。
つまり、伊藤計劃の頃は「ネットによって切り開かれる新世界」が、良くも悪くも信じられていて、伊藤も「ネットで一元化された世界」への気持ちの悪さとか、そーゆーのを表明すれば良かったのだが、今はそれどころじゃなくなってる。
 
こういう言い方をしてもいい。虐殺器官とかの頃は、俺らの未来はディストピアの内側なのだろうと思ってた。
けど、今の俺らは、自分たちの未来の居場所は、ディストピアの塀の外側に膨大に広がるスラムなのだと感じ始めてる。「第9地区」が公開されたのは伊藤死去の半年後、日本公開はその翌年だ。
そろそろ、そういう話になってもいいんじゃねえのと思うんだけど、俺の読んでない「伊藤計劃以後」という評論群って、そういう議論してんのかな? 知ってたら教えてほしい