まだまだ続き。

 ここで、なぜスーマリゼビウスがチュートリアリズムという概念を呼び出すにあたって引き合いにだされなければならなかったのか、を考えなければならなくなる。

>「ゲームを考える時、特定のルールがどのようなものであるか、ではなく、プレイヤーによってゲームが理解され、調整され、最適化されていくプロセスこそに注目しなければいけない。そこにこそ、ゲームを遊ぶという行為のもつ重要な側面が存在する。」(中略)この数年、多くのゲーム研究者が、特に申し合わせたわけでもなく、同時多発的にこうした議論をはじめている。
>「ゲームを理解していくプロセスこそが極めて重要である」あるいは「プロセスこそがゲームである」というような、ゲーム観、あるいはゲームデザイン観を、本稿では「チュートリアリズム」と名付ける。
井上明人「チュートリアリズムの成立 -認知プロセスとしてのゲーム観-」日本デジタルゲーム学研究 Vol.3 No.1 2009/3/31)

 井上氏が目論むのはおそらく「プレイヤー側の認知のプロセス」が、あらかじめゲームデザインによって誘導されていく実証例をあげることであり、それは

>マリオをプレイした人の8割がマリオを楽しい、というときマリオの側がプレイの仕方を制御してる可能性が高いわけですよね。5%の特殊な人が、変わった楽しみ方を見つけている、とかってことじゃないですよね。マリオとか、ICOの場合は。
http://www.critiqueofgames.net/2009/11/ico.html

 というICO議論と照応しあう。

 ただ先に突っ込みをいれとくと、マリオをあまり楽しめなかった(少なくとも現在までクッパを一匹も倒したことがない)身として言うなら、スーマリのチュートリアリズムには欠陥がある。ゲームを習熟した人のためのステージスキップの隠し土管の存在を早い段階で知ってしまった場合に、「より先のステージに到達すること」は「ゲームに習熟すること」より魅力的な場合がある。そして4-1に直行して不慣れなまますぐ死に「つまんない」と投げ出す。高次に習熟したプレイヤーのための救済措置が初心者を阻害する弊害を、マリオも逃れられずにいたということなのだ。だから僕にとってマリオは超魔界村より難しくてハードルが高すぎる困ったソフトである。

 脱線しすぎた。続く。