まだ続き

 マリオのファイアーボールはマリオ自身と同様に重力に惹かれて落ちていく。重力は右方向への到達先をおのずと決める。

 マリオにとっての「下に落ちる」は死を意味する。というよりも、例えば敵にぶつかって自機をひとつ失うとき、画面上ではマリオはびっくりしてとびあがり、しかるのちに足場を通り越して「下に落ちる」。つまり「下に落ちると死ぬ」のではなく「死ぬと下に落ちる」のであり、落ちることがゲームオーバーだ。画面全体に働きかける重力はそこで下へ下へ、ゲームオーバーへ、死へ、終焉へ、画面の外へ、遊びの時間の終わりへと誘う力だ。(だから、現実の重力そのものではない。重力を模した終焉への誘いであり現実への回帰を促そうとするリアリズムの触手だ)

 ファイアボールは、そのような重力にやはり引かれて先へと真っ直ぐ届かず床を弾んでいく。床がなければ落ちていく。スタート地点から一歩も動かず飛び道具を撃ち続けても、ステージ最奥のクッパへは届かない。ファイアーボールは、今現在表示されている「画面」の届かない右半分へは届いても、ステージの先に干渉はできない。飛び道具は画面に「すきま」を生み出すように働く。「すきま」は空間だ。空間はしかし重力に捉えられて画面全体に広がってはくれない。それが縦シューとの違いだ。空間を狭める重力の具象化が横シューの「地形」である、ともいえる。

 重力、下への力を押しのけて、ゲームを続けていく場・空間を押し広げていくために右へ右へ、ただ一方向へ進む。後戻りはできない。画面の左の限界は、まるで物理的な壁のように行動を遮る。試行錯誤も逡巡も許されない。この、途中で引き返しようのなく前進するしかないあり方は「いくら死んでもやり直しがきくゲーム感覚の生死観」と表裏一体だ。つまり、死こそ量産されるが生は絶対唯一の変えようのない宿命としてある。

 それらはつまりゲームシナリオであり、シナリオを媒体に呼び寄せられたスクロールする地上の光景であり、地形という重力の具象から逃れて右へ右へとたぐりよせていくただひとつの道であり、全体がひとつに結びつくための、つまりゲームがその都度の「あそび道具」ではなく一つの完結性(全体性)を有する「作品」としてあるために見出される糸のひとすじだ。

 続く。