続き

・立ち絵の変更。

正確には、シナリオの絶妙なポイントで、それまで使用していなかった立ち絵を使用し、それにあわせてBGMも変更するなどの組み合わせ技なのだけれども。
はっきり言って、ほとんど、この一回限りの演出で「ひぐらし」は成り上がったと言っていい。後にも先にも確かにビジュアルノベルでしか有り得ないコレきりの手法だと、誰の目にもはっきり判る形でやってのけたのが、レナの立ち絵の変更と「嘘だっ!」の台詞。

基本的には、キャラクターとりわけヒロインに情報が集中するのがキャラクターを追いかけることでシナリオ分岐するノベルゲームの主流であって、これが表現的に尖鋭化していくと自ずとキャラクター人格の解体に向かうことになる。人格の解体は技術的には推理小説の側の得意分野なわけだが、「ひぐらし」のレナの立ち絵のそれは、「謎解き」=「ヒロインの内面の真実を物語として知る状態」=「ヒロインの人格の把握」をプレイヤーの予測を裏切る形で宙吊り(投げっぱなし)にしてみせ、ヒロインたるべきレナの人格をプレイヤー側の視点から見失わせることになる。

まとめると、ヒロインの人格の解体を、立ち絵のとりわけ「瞳」の変化で表現しえたのが、「ひぐらし」の演出の達成点である。これはいくら強調しても強調しすぎということはない。この先もキャラクター単位で情報を管理する枠組みは大勢であり続けるのだから。

それ以外の演出効果については、シリーズ後半になるほど過剰気味で煩くなっていき、読むリズムが狂わされたというのが個人的な感想。感じ方に個人差はあると思う。
ただ、『 Fate/stay night 』の戦闘シーンなどは集中線や光線を立て続けに見せる、つまりアニメーションやマンガでの既存の表現を想起させることで戦闘のように見せているため、想像力の働く幅が酷く狭いことは違いない。今後、3D転用のアニメーション演出(Teatimeの「らぶデス」の類)やコマ演出(そこらのウェブコミックで山ほど)が安く効果的に使えるようになれば多くはそちらに移行するだろうし、『 Fate/stay night 』のように多用してしまうと、ゲームシナリオの主役はテキストでもグラフィックでもなく演出だという話になってしまうのだが、演出自体は上で書いたように既存の表現のコピーでしかないわけで、最初から他メディアに負けている。