原則論

>深読みするような人はおおむね評価してるよーな?
http://ruriko.denpa.org/200902a.html#0701

 その物言いは携わる側の発言じゃない。

 深読みする人と深読みしない人という受け手の区別は、作品を巡って使う言葉ではない。誰であっても、どんな読み方であっても、が作品という言葉を使う場合の大前提。なぜなら、どこを入り口にしたとしても必ずどこかに繋がっている、そうした全体の唯一無二のつながりの総体こそが作品が作品であるための条件であり目標であり理想であり義務であるはずだから。数学の公式と同じと言えば判るだろうか。一定の数値を入れると機能せず破綻するようなのは公式とは言わないだろう。文章から入った人が立ち絵の動きの細部へと至り、立ち絵の動作からテーマにいたり、テーマを求める人が音楽に浸り、音を求めた人が絵に見惚れ、キャラクターから入った人が言葉に感じ入り、読むことを求めた人が歌を口ずさみ、見ることを求めた人が歩きはじめることを指して「作品」と呼ぶ。本来なら少し触れた人であっても深読みに到るのでなければ恥じ入るべきことのはずだし、深く読み込もうとした者が目論見を逸らされるのでなければ話にならない。

 もちろん、「小説ではあるが作品ではない」とか「絵画ではあるが作品ではない」という在り方は言葉の定義上も実際もありうる。「エロゲではあるが作品ではない」という物言いも、評者がそう望むなら言っても構わない。それなら絵と物語と言葉とシステムとが全て個別に独立し評価されるだろう。ただ、それは作品ではない以上、作ることとは全く異なる領域に属する。「創作」という、作るという字の入った言葉にはかすかにも近付くことはない。

 評者も同じで、作品について語るというのは、言葉の上では絵について述べながら声優について語り、物語について指摘することで路傍の石の手触りを確かめることを指す。深読みしましたと述べて深読みしたことになどなるはずがない。