@oyomot: 今回ここまで。
@oyomot: 小説にしたって何にしたって、記号と構造でなんでも読み解けるわけではないですが、マンガのそれがまた面倒なのは、マンガが大前提として「絵と記号の両方をつかいこなして、しかもその中間をいったりきたりする」という手法をこそ、メディアの特性として積極的に採用してきたことにあったりします
@oyomot: しかし絵はそうはいかないです。まず、絵は、描いてあるものが目で見てわかる、というレベルのものです。絵画でも記号論で理解とかありますが、そっちの文脈的勉強はちょっと置いといてください。まずはひとの顔が書いてあったらひとだと判る、というのが絵です
@oyomot: さらに記号は、基本的に誰でも扱えます。誰でも扱える、みんなで共有してる。構造の出番です。
@oyomot: 記号の役割は大事です。記号は「記号をそれと目で見てわかんないんだけど、勉強してるとこの記号はどういうことわかる」ちう仕組みをもっていて、「目に見えない裏の意味」を扱えるので、構造の話をするのに持ってこいだからです
@oyomot: マンガは、「構造」をうまいこと使うのが難しかったりします。研究が進んでないから、ってのは勿論そうなんだけど、もうひとつには、マンガの特徴として、マンガはそもそもが、記号と絵を行ったり来たり、すごくフリーに横断しまくりの代物だからだったりします
@oyomot: ただ構造てのを使うと「構造がないところ」を見つける上で逆に役に立つ、というのがありまして、そこは有効に使ってかないといけないわけです。さて、前ふりはこんぐらい。
@oyomot: たくさんある現実の攻め込んできてる範囲では「構造」を見出すのは実際できちゃうから、そこんとこまでは構造を見つけてこうぜ、ということで構造で作品を語るとかあるわけですが、もちろん構造の見つけられないところこそ、本来だったら評さないといけないんですね
@oyomot: だからまあ、現実的な話として、作品てのは、既存の、作品外からの要素がいっぱい入って作られてて、文脈とか文法とかいろいろ構成要素があるんだけど、一方で、評者はそこに固有結界とゆーか作品のオリジナルのロジックがある、ということを前提に読まないといけない、つまり、
@oyomot: 結論からいうと、その通りだと思ってます。基本的には作品ごとにひとつづつ、独自の「構造」を持っていて、「みんなが共有してる」とはならないです。ですが一方で、作品てのはそこまで厳密にガッチリと全てがオリジナルとかにはなりません。だって独自の文字で独自の文法で独自の記法だと誰も読めない
@oyomot: ということで、作品を評価するにあたっては、作品とは現実世界の諸則に対し、新しく全部を規定しなおしてるのだ、と、まずは位置づけます。そうすると、さっきの構造の話との齟齬が出てくる。つまり作品ごとに一つづつ異なる世界であるというなら、「みんなが共有」ってのは成り立たないではないの?
@oyomot: 他人に見える形で評するからには、少なくとも不特定多数の見る場での評というのは、公的な意味を持たないことにはしょうがない。「見えないとこでやれ」となります。そうすると、作品をどう評するか、というのは、作品を現実の、公共に対し、どう位置づけるかから始まるはずです
@oyomot: まあ、作品を楽しむのは、どんなやりかたであってもいいだろ、という意見もあるでしょう。そういう人に対しては、第二問、なんで作品への評価を外に見える形にするのか、があります。自分が楽しければいいんだったら、何も言わずに一人で楽しめばいいじゃない、なんでツイッタ―上とかで書くの?と
@oyomot: 別にどっちでもいいんですが、作品を評しようとするからには、基本的には「作品ごとに個別のロジックを抱えてるんだ」というふうに考えておかないと、わざわざ評する意味ないですよね、とは思います。規範批評だったら法律の該当箇所を読んでおけばいいわけでフィクションいらないじゃん的な態度です
@oyomot: 「作品」を、現実世界と切り離し、むしろ作品一作ごとに、現実世界に対抗する一つの世界である、と扱うか。僕はこっちの「作品ごとに一つの世界である」ほうをとります。というか「作品」というのは、それぞれが一つの聖書として、そのたびに世界全体を仕切り直し捉えなおすものだ、という考え方ですね
@oyomot: さて、こっからは、価値判断の第一問になります。「作品」という枠組みを、どこに位置づけるかは、人によって違う。たとえばプロパガンダ映画とかありますが、それを政治の枠の中で位置づけて、政策とか政府の役割とか、そゆのの中で「社会のシステムの中の一環」と位置づけるか、あるいは、
@oyomot: なぜかといいますと、やっぱ小説でも映画でも「みんなで共有してること」という範囲は沢山あります。具体的には、小説とかなら文字で文章使って書かれてるわけで、文字とか文章とかだったら「みんなで共有してること」だからいけるぜ、って感じです。
@oyomot: 扱う範囲はあくまで「みんなで共有してること」です。「みんな」が成立しないとダメです。どういうことかというと、社会的なものは扱えるけど個人レベルだと扱えないとかそんな感じです。だというのに凄いプライベートなはずの小説の読むのとか映画を見るのとかを構造で見るの流行りました。なぜかと
@oyomot: 構造主義ってのはなんか見えないとこで仕組みが働いてるんじゃないか、と勘ぐるやつです。大ざっぱにいうと自然科学みたいなことを人文分野にも適用できるんじゃね?的なナンカです。これ基本的には頭いい考え方なんだけど、もちろん万能じゃなくて、人文の細かいことはできません
@oyomot: RT @S_Mizuki: 「売れたら好きなことやっていから」って説得される作家は多いが、“アニメ化を経たら中二病的に埴谷雄高を意識しはじめた”という「本当にダメな例」として貴重です。
@oyomot: RT @mp_f_pp: とあった(いちばんうしろの大魔王 ACT13 )URLかなり気になるし、埴谷雄高を引き合いに出されたら読みたくなる人多いのでは。
@oyomot: あ、今回はすらっといけた
@oyomot: すみません。いつものことなんですが、さっきからオペラが強制終了しまくりでまともに書けません。今までもそうで、書けなければそれはそれでいいやと思って放置してたんですが、なんかいいブラウザがあったら教えてください
@oyomot: ごめん中座する。
@oyomot: んーと。まずそうね。思うに最初につまづくのが「まんがの構造」という前提がよくない。「まんがの構造」は例によって例のごとく大塚英志の著書だけど、俺が言うのは「大塚に引っ張られるのは俺らの悪い癖だからやめたほうがいいよ」ってのと同時に、構造主義はほどほどに、って意味でも
@oyomot: 基本的にはこっちの書いてることがどうでもいい愚痴である以上は、彼がそれにどういう返事しても、まあそれはどっちもどうでもいいっつうか、そのレベルまで降りてこなくてもいいのになあ、って話ではあるのだが、真面目に返事してるつもりだとしたら、「本を書きなさい」はねえよなあ、とは思う