昔のAVGに今のビジュアルノベルの演出とな。

http://ruriko.denpa.org/200809b.html#1202k

 いや。なんかまた。

 ビジュアルノベルの、擬似アニメや擬似漫画を目指した系統の「演出」って、今かなり無理してる気がするのだけど、昔の画面に組み込むと矛盾がいろいろ出てくるんじゃなかろうか。極端な話、Fateのような画面の使い方と、旧来のアドベンチャーの「画面内の証拠探し」のようなのは、そのままだと全く噛み合わないと思うのだけど、見た目を微調整してそのへんクリアしてる他のゲームでのキャラクターの立ち絵動作のようなのがAVGと合わさることで難題が出てきそうな。新しい配置バランスまで結構な試行錯誤が続きそうな気がするのだけど。

 あるいは『同級生』あたりの女の子と会話してる部分だけ今風にしてみたら、みたいな分離使用のイメージだろうか。

 それ、全体として、尺がえらく長くならないだろうか。

 ユリイカ小島秀夫インタビュー読んだんだけど、気になったのはムービーの長さに対する感覚についてのくだりで。映画を作ってるつもりはないゲームだよ、てのは当り前の言葉として。ゲームを作ってるつもりなのにムービー長くないつもりてのが、バランス崩れてるのではと思った。

 映画や漫画の演出の方法論て本来は情報の集約、一定時間内の画面や文章量の中にどれだけ密度を突っ込めるかが勝負どころのはずで。

 なのに、今のノベルゲームてどうしても「演出」するほどプレイ時間が長くなってる。演出のおかげで複雑なシチュが作れるようになったからという理由で複雑なシチュを突っ込むようになったのが直接原因で。それって一見すると問題ないように思えるんだけど、実は核心に至るための情報を集約できてない、メインがサブ要素に埋もれて見えなくなってる状態じゃないか。いつの時代でもどこの組織でもどんな技術でも出てくる問題なのだけど、足し算ばっかりやってるうちに見通しが悪くなってきてる状況。

>長く楽しめるほうが、いいゲームだ。
>どっぷりハマれるものほど、いいゲームだ。

>という、いまにして思えば「とんでもなく間違った考え方」に沿って、ゲームは発展してしまいました。
http://retro.mmoh.jp/e69562.html

 いい加減、シェイプアップ論を言わないと拙かろうと思うのだけど。プロに向けて言うことじゃないが、いったい何を指して「演出」と呼ぶべきなのかという。

 続けてみる。