アキカジの続き

 前回の前提。

 現状のノベルゲームの技術に対して、安いという言い方以外の大義名分を黒船外圧のようにして獲得できた。

 次の前提。

 今のノベルゲームで使われてる描画の技術は、今は既にノベル、小説の形式に寄り添う必要がなくなってきてる。もともと、ビジュアルノベルと言いつつも、小説とは求められてる文章の形式や表現が同じじゃないことは誰もが体感的に判ってた。で、<a href="http://ruriko.denpa.org/200809b.html#1501j">「余分なテキストのカット」</a>のための画面表示という考え方がある、つまり文章を読む、読ませるのとは潜在的に方向性が異なる。実を言えば『Fate』の段階で画面で効果が入ったり立ち絵が移動したりする部分が長くとられると文章を読むリズムが中断されるという不満はあって、それが嫌になってノベルゲームを追いかけるのを止めた小説読みの知人もいたりする。

 文章と絵の相互の主張がぶつかるようになった背景には「ノベルゲームは小説と同じように読まれるメディアだ」>「小説だったら何でもノベルゲームに出来る」>「小説で迫力あるシーンがあったらノベルゲームの画面演出でも迫力を出すよう頑張らなきゃね」という、そもそも文章と映像は別物だろうという常識を軽く無視した声があったことは必ず押さえておかなきゃいけない。僕にいわせれば三角関係の嫉妬を描くことだってシステム上の限界があったのであって、それを小手先の揚げ足取りで弄ってもヤンデレといった内輪ウケの形で収まってしまってそれ以上の「メディアを超えたアピール・メッセージ」を訴える力はない、となるがさておき。

 でもまぁ、それは既に起きてしまったことなので、今、小説モドキのサブ要素のような扱いで培われてきた技術というものが現に手元にあって、それは文章表現とは衝突することが判ってる。ということは、文章に付属させるのとは全く異なる表現領域に分離したほうが、活用の途が開けるんじゃないか。