エロとキャラ(続いてます)

 キャラクターの記号の部位というのは一般的にエロを想起させないものが使われます。巨乳というのは一度アニメで揺れまくって身体から分別されることで記号化を果たします。マスコットキャラにおいて一目瞭然ですが、キャラクターとは顔がある、顔が見えているものたちです。その顔には内面を示す表情はありません。萌えキャラというのも理屈は同じで、内面を示すような複雑な表情から一度切り離されることで成立してる。そうした顔というのは、つまり存在の根拠です。内も外も無く、単に実存に近しい。そこに身体というパーツを付け加えていくという順序で考えます。なので身体部位は全て記号と言って差し支えなく、記号であるような性的部位に一般的な意味でのエロを見出すという手順を経ることで「萌える」となる。「萌える」ことの、このダイレクトなエロに対しての近づきえなさがエロゲーから広まった。何故か。

 キャラクターを中心に見た場足、物語とは固定された形式の発見です。まずキャラクターを見出し、その糸口から一定の書式が引き出される。

 ところが普通、映画でも小説でもRPGでもノベルゲームでも、シナリオというのが想定されて、非常に制限された環境での固定の形式が語られます。このシナリオというのは特定の思想と様々な表現メディアの物理的制約との間の調整のためのツールです。メディアにはそれぞれ出来ることと出来ないことがありますが、その制限を宿らせてメディアの制約を不可視にするのがシナリオの役目です。ですから作り手においてシナリオの役割は表現の制約を解除するための道具になりますし、受け手においてシナリオを読み取ることは特定の思想的傾向を発見することになります。

 このシナリオを導き出す思想においてキャラクターと物語はワンセットで不可分ですので、キャラクターだけが物語から分離して存在するというのはあり得ません。にも関わらずキャラクターが一人歩きする状態がしばしばあります。