なんか

必然性のあるエロ

「必然性のあるエロ」ていう価値基準がある。エロゲーのシナリオでストーリー展開上ちゃんと意味があるエロシーンてのがシナリオ評価を左右する、という考え方。
この考え方はエロやグロや暴力やなんやかやが物語に奉仕することを要求するが、エロゲー以外では、こういう価値判断はあまり言われない。山田風太郎菊地秀行の評価に「エロに必然性がある」なんて言わない。忍法に無理に下ネタくっつけるなよ! 必然性ないじゃん! なんて言ったらバカ呼ばわりされるだろう。
逆に、アダルトビデオなどでもセレクトに「必然性のあるエロ」なんて大して気にしない。女優の顔や身体のほうが最優先。
18禁PCゲームでもグラフィック優先だけれども、一方でエロゲーレビューサイトなどではマニアとまでいかない程度の人でも「エロシーンに必然性が欲しい」て言葉が出てきてしまうことがある。それが最も極端な形で燃え上がったのが『ONE』や『Kanon』の頃。エロシーンを経由せずにヒロインのハッピーエンドに到達してしまえるシナリオが出たのを受けて「もうエロはいらない、感動的なストーリーだけあればいい」て意見と、それに反発する「エロシーン無しで意味が通ってしまえるシナリオなんてエロゲーとして正しくない、必然性のあるエロを導入せよ」て意見が衝突する、ていう図式を描いてみせた人たちがいたのね。主に自称エロゲー右翼(要するにアンチKanon)ていう人たちで、『 Kanon 』に踊らされたて意味ではどっちも同じなんだけど。
「エロの必然性」は伝統的に叫ばれ続けてきているが、これはエロゲー単体のジャンルとしてではなく非18禁のゲームと地続きなものとして18禁PCソフトを扱おうとする態度と、ソフ倫のシールや販売コーナーの立地による区別、新品買えば最低でも20万30万するPCを媒体にし、ソフト改造やコピー流通が当り前の「コンシューマー機とは違うのだよ、コンシューマー機とは」的態度、両者の複合と思われる。
18禁PCゲームだけで完結したコミュニティであれば、エロを物語やシステムに従属させる言説は必要ない。一方でコンシューマーのゲームもPCのゲームもただ同じように扱うのなら、官能小説と官能と名のつかない小説との両方に濡れ場が当り前にあるのと同様に、ことさらにエロについて強調してみせる必要もない。
結局は、ソフ倫メディ倫*1ていう流通の問題等の外部事情でエロと非エロを区別しなければならず、あるいはPCゲームの伝統の火を消すな的な愛着や固執があり、その敷居が非18禁ゲームと(あるいは最近であればライトノベルと)並べようとする際に、作品タイトルの手前で「エロ」と頭に冠する脳内手順が追加されることになり、その「エロ」と呼ぶ態度が作品内のエロシーンを無効化することになる。

自己言及

言語化てのは基本的には機能や事象を静的に捉えることなので、自己言及は動的な在り方を機能停止させる効果がある。
例えばRPGの「レベル」はゲームの主観的な在り方への根源的な自己言及であり、レベルアップシステムの導入は、プレイヤーのゲームプレイ態度を巧妙に抑制することを可能にする。長大なシナリオや広大なマップの導入も、そうした自己言及によるゲーミングの阻害によって成立する。
閑話休題、PC18禁ゲームを非18禁ゲーム(や小説)との連続性において「エロ」と特に名指すことは、作品内のエロシーンのエロの作用を機能停止させる。プレイヤーはエロシーンが持っていた意味や効果をスルーすることになり、結果的に宙に浮いた形のエロシーンを(エロゲーという名前を持つがゆえに)排除することも出来ず、「必然性のあるエロ」として物語の構成要素内に回収することになる。

*1:最近ならCERO規制や地方自治体の条例も含まれるだろう