萌えるのと恋愛すんのとの差

 萌えるの領域を指して扱ってて、萌えるのと恋愛すんのとの相同と相違の話。

 萌えるのは基本的に主体がない。漠然と複数人数による共有が行われるし、よしんば最初に個人から発せられるにしても、いわゆる自動詞と他動詞の問題、「あなたが好きだ/愛してる」じゃなく「あなたに萌える」、そのときに発せられた「萌える」は「同じ対象に萌える」ことを共有する場への「萌える」の開放で。それを受けた相手は「じゃあ、私もあなたに萌える」でなく「私って萌えるキャラなんだ」となる。ここで「私」と使ってるけど、実際は主体は際限なく広がるので「私」なんかない。言動を一致させて働きかける個人の意思とゆーのは「萌える」の守備範囲を超える。

「萌える」の語の使い始めなら萌える全員が互いの内面の共有を装えて、キャラクターの内面にまで踏み込む意味で「萌える」を使えたかもしれんけど。それは「萌える」の用法が初期段階で、扱う内面がそれなりに単純明快さを備えてて十分なマスを取り込める広がりを持ちえていたからで。「狭義の萌え」というときに採用される枠組みは、その初期状態を取り扱ってる。

 そうした「萌え」が内面への言及たりえた時代は終わったん。なんせ「おっさん臭さ」は「狭義の萌え」から逆算して作り上げた話なんで。

 恋愛の主体性と萌えの主体性の幸福な合致を基準にして萌え語りをするには現状の「萌える」「萌え」の範囲は広がりすぎで。「萌える」→「萌え」の循環が成立するためのジャンル策定に忠実であるようでは随分と形式主義的だし、いつどんなときでも個人がそれぞれのタイミングで内面へのダイブを敢行すると言えるほど「内面」が当り前に存在するとは、僕は思ってない。内面を成立させるにはそれなりの文脈が必要で、「萌える」はそうした文脈形成と逆に働く。

>A もし本当に嫌われててNOの返事が出た場合
>「寝言は寝てから言えっての バカ 家に帰ってクソして寝れば?」

>B もし本当は好かれててOKの返事が出た場合
>「寝言は寝てから言えっての バカ 家に帰ってクソして寝れば?」

>「いいか あの子はツンデレなんだから告白しても返事は結局同じになる だからまぁそこんとこはお前が彼女の声色とか様子とかよーく観察してだな……」
篠房六郎百舌谷さん逆上するアフタヌーンKC P76)

 観察しても同じだからツンデレなんだよバーカ。