エロと萌え

『<美少女>の現代史』は萌えキャラの原型を追いかける歴史観を提示する形式をとるが、時系列で追いつつ「萌え」を主題として大きく取り上げてしまっているため記述が錯綜してる。「美少女」がそのまま「萌え」に繋がっているはずがなく、一方で「美少女」という核が拡散し一方で「萌え」に収束していくところの中間にある無数のほつれ広がりきった糸と糸の縒り合わさりを太い一本の綱のように見せてしまっている点を注意深く避けないとならない。その一つに「体」と「顔」の接続の問題がある。

 そもそも「体」には「萌え」ない。眼鏡やネコ耳や絶対領域と、ひたすら本体から視線を逸らし続けてきたことを思い起こせばいい。「萌える」が性的アプローチなのは違いないがアプローチの順序は観念を経由して実体に帰着する路線をとる。「肉体を征服することにより内面を征服する」のではなくその逆、概念を媒体にして肉体に辿りつこうとする。それは従来の恋愛の形式とは似て非なるもので、相手の心理や主体の獲得がゴールにはならない。

 エッチを共通コードとしてその先を目指すのではなく、コードの共有を手がかりにエッチに辿りつくのが「萌える」で、そうした「萌える」がエッチに接続するための座標として「顔」がある。「体」と「顔」は平行線のまま交わらない。

 勿論、そんな「萌える」は従来的な物語のコードとは噛み合わない。それを着地させるのがエロゲギャルゲのエロという不可視化された結節点となる。セックスが隠されず置かれているためエロゲーを「萌え」で語るものはエロを自明として自分の口からは語らずにいられる。「萌える」はセックスを外部化することで、つまり性に隣接しながら性を排除することで成立する。その排除された性には恋愛も含まれてることに注意。恋愛を純粋に形而上的な概念だと捉えてはならない。そんなのは映画の見すぎ小説の読みすぎだ。恋愛は明確に実体があり、恋愛を排除し否定したところで「萌え」を排除したことにはならない。不可能性で縁取られることで恋愛は権力化するのであって、その逆ではない。

 だからエロゲが表舞台に引きずり出され東鳩エロ不要論だのエロゲ右派左派だのとトライブ化し、他ジャンルと横並びとなりエロという立ち位置を強調せざるをえなくなると、エロの不可視化が困難となりエロと萌えの共犯関係は解体されツンデレへの道が開かれることになる。

 続く。