恥ずかしい台詞をささやく件

 これについてはコードギアスDSで

C.C.「ピザは好きか?」
ともよ「ダ・イ・ス・キ」
C.C.「……そ、そうか」

 とゆー画面内のC.C.はその気がないのに俺だけ空回りな底なしに恥ずかしいロンリー音声やり取りを経ているので、画面内の女の子が応答してくれるラブプラスのほうが心理的にはまるで楽。はたから見て同じだといわれるかもしれんが。

 とはいえ深夜番組でラブプラスプレイ実況中継したら、受けはとれるだろーなーと思います。それとも全力で引かれるか。

 さて、極めて個人的であるような「恋愛」を題材にしたゲームを、みんなで集まってワイワイプレイする倒錯した楽しみ方は、ときメモのヒットしたそもそもの発端から常にくっついてる事情です。「萌える」行為は、個人とゲーム内の女性との間だけで成立はしない。どこかで誰かが同じように萌えているから、ヒロインとではなく他の誰かと並列的な形で感情を共有できる相手がいる前提があるから、ヒロインとの関係を結ばないですむ(「萌える」が自動詞である件)。「萌える」が比較的狭い世界で使われていた90年代ネット初期なら、「萌える」と書けばコミュニティの確認も同時に済んでいた。個人的事情でありながらそれぞれが共有していることを互いに知っている、絶妙な距離感。連れ立ってストリップ劇場を見に行くのとの違いは「エロ」をネタに盛り上がるか「恋愛」をネタに盛り上がるかの差でした。というより、「恋愛」をストリップ劇場の演目に持ち上げるための舞台装置として、「踊り子さんに手を触れない」ような「萌える」が結果的に選択されたといって構わないでしょう。
 ただ、そうした「萌える」対象が広がりすぎてしまいコミュニティの確認も出来なくなってしまえば、「萌え〜!」と叫んで自己主張して場に人を呼び込むしかなくなります。そのうち叫んでも人が集まらなくなったあたりで、「萌える」ことをやめて「俺の嫁」といって娘さんを囲い込むようになる。踊り子に手を触れても構わない、つまりコミュニティを維持する気分がなくなった。まぁ、エロゲやギャルゲが求心力を失うのと並行してそうなった。

 話が先走りすぎましたが、ときメモは、そうした感情をまとめる受け皿になりえました。なんでか。 

 おそらく、恋愛の、人の心理のいろいろ、のような複雑な機微をザックリ無視したシステムで恋愛を扱ったから、でしょう。目で見て判るパラメーター、即物的・直接的なヒロインの好感度上下。