KMFはヒコーキから発展したんだそうな

 単にメイドは戦車かヒコーキかの分類に拘りたいというだけなら、ミニがヒコーキでロングが戦車。ヒコーキと戦車の区分に拘りたい理由を邪推するなら、メイドが脈絡なく跋扈してんのが嫌なんだろう、と何となく。

 んで。

フロイトさんがやってきて「いや、それ基本性欲だから」と言えば、悪魔の証明的に反論不能

 いやそれ、証明とかそーゆー話じゃないし。過去から連綿と続くらしい「不可能性を孕んだ幻想的概念」(神様を信じるとか)に敬意を払って、そっから順番に決まりごとを広げてった結果、ハエトリグモに萌えてるのは性欲になりましたとゆー話じゃなかったかと。そこに意味を見出さないのであれば(ハエトリグモに欲情してる自分を発見しました、からスタートする敬意じゃないのなら)、敬意というのは「敬して遠ざけとく」という意味になる。天皇とか。美少女天皇とか。

 面倒だしそれでいいよ、ということなら、それで。

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>バレバレだからこそツンデレ

 それはそーゆー扱いにする作家の技量か読者の読解力のどっちか、もしくは双方に問題があるだけだと思う。『百舌谷さん』は扱いとしては社会派ミステリだから萌えもツンデレも殺人者と同レベルでマジで相手する必要はないつー前提で読まれるんだろうけど、そっからツンデレの話を開始するならジャンルの特徴は踏まえてとりあえず除けとく必要がある。

 で。ツンツンとデレデレがイコールで結ばれるからツンデレなので行為を区分けする必要は全くない。

>踏んで縛って叩いて
>蹴ってじらして吊るして
>斬って殴って嬲って
>刺して晒して垂らして
>でもそれってボクの愛なの
http://jp.youtube.com/watch?v=dgN4sR6vJfQ

 で、忘れられてるかもしれないけど、話の前提は読者・視聴者・プレイヤーが作品内のキャラクターに「不可能性を孕んだ幻想的概念」を抱くことだが、それは読者視聴者プレイヤーが神のごとき第三者的視点を降りて「鈍感な観察者」になることを意味する。もうちっと正しく言うと第三者視点と鈍感な観察者の両者が作品内キャラつー鏡の中に互いを参照するのが「不可能性を孕んだ幻想的概念」の伝統芸に当てはまるのだが、その相互参照の結論は鈍感な観察者への同一化、つまり「面倒だし、もうそれでいいよ、萌え」になる、のだけども。

 まぁ。面倒だし。それでいっか。