はやりもの

 まいまいさん。一応見てはいた。

 カッチリ決め込んで作ってきたアニメを見ると、テクノっぽく見えたりする。テクノ歌謡がなんでエロゲOPと相性がいいか(むやみにロックを持ってくるニトロプラスのOPはなんでカッコ悪かったか)とゆー話にならなくもないが。

 はしょって書くと音楽がよかったという話。

 ご当地アニメかどうかについて。

 個人的には外れる。つまりtrue tearsや、大林時かけみたいのではない。

 エロゲやギャルゲを中心に背景美術に目が行くようになった理由は、草薙が頑張った緻密な背景てのもあるだろうが、同時にアイドルヒロインや萌える二次元美少女が常に画面中心に配置されるからだと思ってる。

 なんとなれば、少女たちの演技なりドラマの役割なりを注目するものではないから、少女たちに向けられる視線は跳ね返されて背景美術や背景音楽のような「外」へと向かうことになるからだ。景情が一致するというよりも、情は景にしか映されないのであって、内側から発露して肉体を動かすようなものではない。確認しとくが、人格だのキャラクターだのはただの後付けの発明であって、創作物がそんなもんに縛られる必要は、文脈をキッチリふまえた先にしか、存在しない。

 ヒトガタであるようなモニターの少女たちは、その動かない身体を世界の枠組みとしているから、その身体の外側の世界すべてを、彼女たちの「感情表現」や「こころ」として示す。萌えキャラの外部記号などと呼ばれる身体にくっつけるパーツは、そうした身体という枠組みの外に彼女自身が置かれているあり方と、人の心は身体の内側にあるとする考え方の、両者のせめぎあいの結果として、宙ぶらりんに、中途半端になってしまった彼女自身の存在の「外側」への発露だ。だから萌えキャラに「内面」を求めようとする試みは挫折する。彼女自身は彼女の内側にはないからだ。少女マンガじゃ「少女のアイデンティティが世界全体に広がってる状態」は当たり前なのだが、そういう考え方を理解しないで心を身体の中に封じ込めようとすると失敗する。

 ちなみにエロゲの立ち絵を無駄に動かすのを批判するのは、上記の視点から、どうせ細かい演技など生身の人間はおろかアニメにもかなわない「立ち絵」を動かすだけ描写が貧しくなるため。「動かせるから動かしとく」たぐいの先の見通しの能力のないバカの呼び込んだ退化だ。