世の中は金

>>KMFはヒコーキから発展したんだそうな
>分岐分類学的立場を主張し恣意的な側系統群(この場合「狭義の萌え」?)を分類群と認めない
http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20080703/p3

 物事は金儲けに結びついてるべきという話です。

 ついでに言えば、何故「ハエトリグモへの感情」以外のパターンの「萌え」がこの世のどこかにあって、それを区別しなきゃいけないのか、結局判らない。「ノギスを欲しがる美少女ちゃんは萌えだけど、デバイダーだとちょっと遠い」てのと乳のサイズや絶対領域の有無やパンツの柄との間に差異を設ける必要は僕には見出せない。どれに対してもハエトリグモへの個人的見解と同程度に性欲じゃないと主張できるわけだし、実際にダイレクトな意味での性欲じゃないと見做したほうが説明がつく場合が多い。で、逆に、乳だろうとパンツだろうと全部の「萌え」がそうだ、と主張しない理由はどこにあるのか。

 例えば、仲間内で連れ立ってストリップ劇場に裸を見に行く動機として、「裸を見たいから」より「裸を見たという同じ体験を共有したいから」のほうが適切、てのと「萌え」が同じとして。ときメモでの「純愛」に盛り上がった感情がその延長でないと主張する根拠は特にない。虚構の存在に対しての話なのに、精神的な意味合いに見える「恋愛感情」と、即物的反応に見える「裸を見る」「セックスする」の間に区別をつけるというのは、恣意的な文脈依存といっていい。つーか。ぶっちゃけ、ゲームやアニメのキャラへの純愛的な恋愛感情てのは読解や批評や攻略のための方法論と言えてしまう程度の話であると言えて。それをその先の「個人の思い入れ」へと転換するか否かはケースバイケースとして、恋愛感情というツールを必要としないでも、敷居が低い形でもって受け入れられる方向に現状が移行してるのは確実で、つまり関係進展の機会は減ってる。萌えるという物言いは実情として個人の意見表明と集団の意見調整の割と節操のない混交状態だし、場の雰囲気で流れていって議論を排除するように向かうし、個々人もそれに反発するよりは流されることを選ぶほうが多い。別に日本人だからという話じゃなく。

 で。「メイドさん」と「メイド」という言い方をしたとき、それなりの割合で肉欲か純愛かの選択を迫ってるように見えた。んで、それを犬耳猫耳つって言い換えてるのかな? なんで?