絵と写真

 話を続けると、例えばラスコーの洞窟画だったり、あるいは校舎にスプレーでイラストを描いたり、校庭に宇宙人へのメッセージ、じゃなくてナスカの地上絵だったり、ていうのは「絵」として認められたりして、まぁ、場合によっては「絵」であり「作品」であるかもしれないなあ、というコンセンサスは得やすいだろうと。

 一方で写真は床に印刷したりするのは「写真」であり「作品」である、というふうには僕なんかは思わないわけです。もしかしたら「作品」かもしれないけど、どうも「写真」という枠から外れてるようだと認識する。人にもよるでしょうけど、どうやら僕の常識において写真と判の関係というのは絵画と額縁の関係よりは密接らしい。

 逆に、額縁に嵌ってない絵って、物語があって当たり前だったりします。物語を想起させる絵というか、何がしか意味を喚起させないとそもそも絵だと認められない。これは一方でガキの落書きだかペンキをぶちまけたんだか何だか判らなくても額縁に入れて飾ってあることで絵だと認識されたりするのと対なのは今さら言うまでも無いわけですが、写真はどうやらその対置の関係の片方が欠けている(ように見える)。

 それは例えば、レンズや感光や現像や印刷や加工といった技術と作業の流れの中の切断面であり、それゆえに時間を内部に持ち得なかったりするとか。だからどうも類推で言えば小説よりは詩の言葉に近しい扱いだったりするんじゃないかな、とか。

 どうもえー、詩の言葉に運動性を求める、というのはピンとこないわけです。テクニカルに歴史を積み重ねていくとそういうふうになるのかもしれんけどさ。僕は詩は全く理解できないんですけど。てゆか、助詞や助動詞みたいに日常会話の言語体系が発達してるのに詩とか必要なのかな、どうなんだろう。

 まとまらず。