映画館など

 写真と映画とテレビと、ついでにゲーム画面。

 視覚の話なんだけども、まず一対一と一対多で分けてみる。てのはつまり、視覚が「いち」を基準にしてる(ゲシュタルトとかそーゆーのでもいいけど)というふうに。

 映画は一対多に近しくて、ゲーム画面はどうやら一対一に近しい。んでTVは「映画をお茶の間に流す」としては一対多なんだけども、部屋の中の家具であったり、ザッピングしたり、あるいはバラエティ番組を見たりするようなとき、一対一に近づいてく。

 スポーツ中継。アナウンサー(と解説)という仲介者がいて映画のようには映像を見させてくれず、流れてく映像に逐一解説を入れていく。タレントがニュース番組の司会を受け持つようになった時代に、プロのアナウンサーていう職業の最後に残された仕事はスポーツ実況じゃないか、という言い方を古舘伊知郎あたりがしてたと思うのだけど。結末の判らない物語=リアルタイムていう約束事、つまりスポーツ(=ゲーム)を、アナウンサーを経由させてくことで物語に変換してく。そこだと映像と言葉がリンクしているようでいて分離してる。同時に流れているというリアルタイムだけを共有し(それすらスローモー再生等で崩され)それぞれが別を向いてる。

 写真。複製て話が出てくるが、理屈は版画だし同じ絵が何枚もバラ撒かれること自体はさほど問題じゃない。問題は写真は「いち」なのかという話。アウラてのは時間があることを前提にしてて、時間をその身の内に組み込んだ映画との対比に使われる。けど写真は中に写ってるものとの兼ね合いでいうと時間はない。セピア色の写真ていうモノの領域になると今度は写真にもアウラあるんじゃね? なんて気にさせられたりする。写真の映像は「いち」じゃないとすると、一対一、一対多の関係に組み込めなくなる。時間の流れがせき止められているというより最初からないから、流れは横に広がってく。