@oyomot: おやすみなさい。
@oyomot: しかし、ここでもって、マンガの歴史的な意味での初期の枠組みが特定の意図に基づいて構成され、構造を人為的に構築されたのだとした場合、その人為的な枠組みをまず取り上げ、そこから、順に、どのように構造が増築・改変を経ていったのか、という解題が可能になります。
@oyomot: マンガの中においても、これこそマンガの構造などという枠組みは、これまでの様々な実験的なマンガ作品を経て解体され尽くしてもいるし、それらを再度拾って再構築されもしている。何をもってマンガの構造を見出すかというのは、ほとんど論者の好みという話になってしまうわけですが、
@oyomot: 例えば絵物語というジャンルがある。あるいは小説の挿絵、絵本、紙芝居、映画にTV、様々な視覚メディアと隣接し、マンガは他メディアから絵を経由して構造を取り入れもするでしょう(映画のモンタージュをマンガに取り入れるのは典型)し、逆にマンガの構造が絵によって他ジャンルに輸出されもする
@oyomot: さきほど「マンガの構造」を見出すのは困難だと述べました。なぜなら絵という要素が構造をどんどん抜け穴だらけにしてしまうためだと。別の言い方をするなら、絵は、次から次へと構造を勝手に作ってしまう。その中で「これこそ基礎構造なり」と言い張るのは、百家争鳴の一の囀りにしかならない
@oyomot: 「マンガの父テプフェール」を語るそれらの書籍においては、キャラクターを巡る考察が非常に重要な位置づけをしめている。ちなみにコマとコマ構造については二次的要素、後から整理されていった要素であろうという意見を佐々木果は云ってます。
@oyomot: 諸要素を遡れはそれぞれ数百年前や千年前に起源を求めることはできるが、そうではなく近代マンガの基礎をつくるにあたり、絵と記号の要素をコントロールしマンガ形式にする意思が明確にあった。その意図するところによって近代マンガの基本形式は整理され、そこから発展したというのが研究者の主張
@oyomot: どういうことか。絵と記号は、そう簡単にゴッチャ混ぜにできるものではなく、自然発生的な使い分けでどうにかなってるものではない、ということです。マンガの個々の要素「時系列で連続する絵」「文字と絵の組み合わせ」「吹き出し」「戯画化された人物」等々、過去の様々なマンガの類型との違い
@oyomot: ここで出てくるのがテプフェール研究です。以下は彼らのいう「近代マンガの父」テプフェールについての研究が妥当性を持つと仮定したうえでの話になります。テプフェール研究で強調されるのは、近代マンガは、明確な意図に従って慎重に設計されたものである、ということです
@oyomot: じゃあ、どうすればいいのよ、ということで次です。この「絵と記号がごっちゃまぜになってる」形は、いったい、当たり前の事態なのか。絵と記号がごちゃまぜで、読者はどうやって理解してるんだ、複雑で高度な内容を表現できてるんだから、そこには構造があると考えるべきでないか、という反論が出ます
@oyomot: いやまあ、構造でなんでもかんでも、ってのは、他にもあるので、別に彼のそれに限った話ではないのですが、その「よくあるトラップ」に引っかかっちゃうことで、無数にある「俺はこう思う」のひとつになっちゃって、言っただけって感じになっちゃったのだけ気にしとけばいいと思います。
@oyomot: マンガは絵のもつ機能をうまいこと使って崩し技をどんどん仕掛けてきます。伊藤剛の議論の致命的なとこは、この絵のもつ機能を、構造図式の中に組み込もうとした点にある、といえます。絵はそんな簡単に馴らせるものじゃないんですが、馴らせる範囲でくくろうとした。基本的なミスはそこですね
@oyomot: わかんなくていいです。重要なのは絵には「同じだ」というフィーリングがついてまわることです。この「同じだ」の前には構造主義さんは太刀打ちできないのです。なぜなら絵のプリミティブな「同じ」感は構造を無視しちゃって短絡させちゃうから
@oyomot: 別のものとくっついてるのが記号なのに対して、別のものは別のもの、別々だけど「同じ」だと思うのが絵です。わかりにくいですかね。「違うものだけど同じだ」が絵、「同じだけど違うんだよね」が記号、みたいな。わかりませんか。
@oyomot: 一方で記号は「記号を見て、ああアレだ」というふうにわかる、という感じです。「同じじゃねえか!」というツッコミが入りますが、いえすみません。違いますよね。この場合はアレは見た目が別のものと結びついてる。アレと絵の関係は「同じ」ではないですね。「ずらし」がある。一歩奥に踏み込む。
@oyomot: 絵について、記号との対比において考えてみます。記号の機能がない絵はつまり「絵を見て、ああアレだ」というふうにわかる、という感じですかね。アレがなんであれ、アレと絵について、別のものだと分かったうえで「同じもの」だとみなすのが絵である、と考えてみます。
@oyomot: つまり移民ばっかりで、あるいは学校に通えなくて、字がろくに読めない人たちにも新聞を買ってもらうための武器としてマンガが新聞で掲載された、ってやつ。この説明は、実際に自分が幼児のころに新聞のなかで4コマ漫画ぐらいしか読むものがなかった記憶からすると説得力があります
@oyomot: なんでもかんでも記号を言う人は「絵も記号なのだ」と言い出すのですが絵は「けっこう誰でもわかる」という重要な要素があります。つまり「字が読めなくても絵だとなんとなくわかる」ってやつ。この違いはマンガでは大事。なにせマンガの普及には新聞マンガが重要な役割を果たしたという
@oyomot: 記号はぐぐると説明してくれる通りでいいと思います。要するに見た目のそれには裏の意味があるよ、とかそんなん。一方、絵は見てそれとわかる、って感じです。この対比はマンガにおいて大事です。
@oyomot: マンガのはなしつづき。マンガは絵と記号の金剛です。記号の代表例は言うまでもなく文字。文字と絵のミックス。オノマトペは記号の絵化だし、デフォルメされたキャラクターやキャラクターの感情表現などは絵の記号要素の強化でもある
@oyomot: RT @loderun: オタク差別を回避するために、脱オタクを指南するWEBサイトが90年代に現れたという分析で思い出したこと。別冊宝島『おたくの本』に所収されている富沢雅彦氏の「容姿を整えると本屋で児童向け漫画を立ち読みできなくなる(故にオタ的容姿を敢えて選択する)」という…
@oyomot: RT @unnuho: 7emp、婚礼イベントで「武将」を無双武将にして「配偶者」に女性・輪郭3・声が高飛車2のエディット武将を配置して再生すると配偶者の方の顔が乱れます。うちではいまのところ再現率100%です #smusou7e URL
@oyomot: 。。。というふうに、どうせ既存政党の人たちは誰も何も真面目に考えてないだろう、という予想があるゆえ、そこについては無視して投票していいんじゃね? と思ってる
@oyomot: もうひとつ、付け加えるならば、まあ、民主党が政権を取ることはありえないんだけども、現時点で民主党が政権を引き継いだとした場合、金融政策についてはその無定見ゆえに「現状維持」に走る可能性はけして低くない気がする、と。それは絶対にありえない「共産党が政権取った」場合も同じく