立ち絵の位置づけ

 では、音声の位置づけに、それだけの相違があったとした場合、立ち絵の位置づけはどれだけ変わるのか。
ダンガンロンパ』の特徴的な「立ち絵」についていうなら、3D空間にパラッパラッパーのような2Dのペラペラ立ち絵を配置する。直接的にはニセ西尾維新を演出するため記号性を強調する手法である。しかし、「立ち絵」も記号的、「音声」も記号的、キャラクター設定も記号的であるからといって、シナリオの目指すところが記号性であるわけではない。シナリオはむしろベタすぎるというか、西尾維新の器用かつスタイリッシュな芸風からは程遠い、古臭い人情物の様式をまとっている。『めだかボックス』よりはこっちのほうがジャンプの誌面にはしっくりくる、といえば判りやすいだろうか。一部からすれば随分とつまらないとなるだろうし、大多数からすれば随分と受け入れやすい。

 では、何故そうした古臭さが違和感をかもし出さないのかといえば、「記号」がシナリオ内におけるキャラクター配置から見た場合、完全に外付けになっているためだ。簡単に言えば、「命は大切にね!」とか「弱いものいじめは良くない」とか「前向きに生きないとね」とか、万人が頷かざるをえないような無難な一般的なテーマが軸となってしまいさえすれば、キャラクターの外側がどれだけ記号的だろうと、そのキャラクターは「人間的」であることが保証されるのである。(どこぞの推理探偵物小説だのラノベだので流行してる擬似「萌え」の類の「記号性」は概してそういうふうに成り立っている。)
 逆にいえば、そうした「人間的であること」の保証さえあれば、あとはもう、キャラクターの外見がどんだけ記号的であることを装っていても構わない。そして、それをもう一歩推し進めるなら、キャラクターのパーツがバラけてしまっていても、つまり音声とテキストが一致せずキャラクターグラフィックが音声を繋ぎとめていなくても、それを同一画面内に押し込めてさえおけば、一人の人格の様々な側面とみなされる。「立ち絵」が律儀に台詞や音声と連動しなくても、あるいは黒画面で消え去っていても、まあ、どうにかなる。

 しかし、上リンク先のエロゲの現状報告について見た場合、そうなっていない。そこには極めて保守的な業界の態度が影響しているが、保守性を支えているのは音声が性的興奮を呼び起こすものとして広範囲に認められているためではないか。おそらく、エロゲの現状において、画面に登場するキャラクターたちは本質的にはキャラクターとして認められていない。大枠としてみれば作品の軸となるのが無難な一般的なテーマではなく、ヒロインの裸を見て勃 起することであり、ヒロインの喘ぎ声で勃 起することだからである。エロシーンが中心的でないようなエロゲーにおいても、エロシーンではとりあえず喘ぎ声テキストはしっかり確保されているだろう。そこから導き出されるフルボイスという様式は、いつかラブいエロシーンが(ファンディスクでもいいから)与えられる日のためにスタンバっている。その結果、エロゲーという枠組みの元、その根拠が性的であることを担保にし続けていられるからこそ、性的でないようなシーンにおいてキャラクターの諸要素が性的アピールを仕掛ける必要がない。

 そうした中において、「立ち絵」という様式は、現状、微妙に浮いてしまっている。勘違いされがちだが、もしも立ち絵に性的興奮を認めてしまったならば、もはやエロシーンは必要なくなってしまう。長森が頬を染めている立ち絵を見てしまえば、エロシーンイラネとなり、結果、流れとしてセックスを嫌悪するしかないのである。逆に、立ち絵だとセックスから無縁そうなほうが、いざエロシーンをかいま見たとき激しく興奮するのも周知の事実だ。(雪さんをみよ) にも関わらず、膨大なテキストデータの先へと飛ばされたエロシーンの手前において、立ち絵はそれ自体も性的であることを要請されるようになった。エロシーンのCGは(CG枚数が価格と連動するのが当然と言われながら)相対的に価値が下がったとされ、立ち絵の相対的価値がその分だけ上昇したと言われるようになった。もちろん、実際には「この立ち絵の女の子のエロシーンを拝みたい」という、エロシーンまでの案内の役割であって、それ自体が価値を生じているわけではないのだが、エロシーンを具体的に語ることへのタブー意識もあって、立ち絵は切り離されて語られるようになったのだろう。そして、エロシーンと切り離された「立ち絵」は、作品内で、その存在の根拠を見失った。

 およそ、立ち絵を巡る混乱は、そうした背景を視野に入れておかないと誤読するはめになる。背景画像と組み合わされた擬似3D空間に立脚しようとしたり、演劇空間を根拠に求めて凄まじい数の表情差分を要求するようになったりする、これらは、結果的に、エロゲのヒロインの魅力をどんどんと削ぎ落とす方向へと突き進んでいる(決めのポーズやとっておきの表情なんてそうそう何種類も描ける訳がないのに、それを何のメリハリもなく、とっておきのシーンのためのとっておきのCGに使える前に、差分表情で蕩尽してしまうとしたら、これほど悲しいことはない)が、何故かといえば、立ち絵は、それ自身がヒロインの根拠ではなく、本来であればむしろ何らの意思も動作も反映させるべきではないニュートラルなもの(人間的感情を反映させなくてもいいから、キャラクターの記号性を十二分に反映しえた)であったはずなのに、「立ち絵」という独自性を主張しなければならなくなったためである。

今回の例で言えば、音声との連動を立ち絵の根拠に求めているが、では、逆に言えば、音声との連動を結びつける前に、立ち絵は何らかの意味や関係を持ちえていただろうか。実は、そこには何もなかったのではないだろうか。