鍵っ子 続き

 麻枝准が家族や共同幻想がテーマにしてるってのは、ファンや周囲からそういうふうに言われだして、本人もそういうのを書かなきゃいけないと判断してからだと思う。それが久弥が辞めて麻枝准て名前がクローズアップされるのと同時期に進行した。つーか筆致からして家族が大事なんてのは言葉の上っ面だけだよなーと。

 つか、ライターとして両極の激亀仙人氏と更科修一郎氏の両方が「エロゲーで家族を先駆的に追求した『とらいあんぐるハート』は凄い」みたいなこと言ってたわけで、実際、擬似家族を描いてるのなんて他に適切な例は山ほどあるし、テーマに掲げるのとしては後追いかつ時代遅れだし。後から振り返ったら、麻枝准の「家族」なんてのは周囲の評価に振り回されただけ、てことになるんじゃないかと思う。むしろ最後まで「家族」て単語を見失い続けたライターていう扱いになるんじゃないかな。

 麻枝准で問題になってるのは、今木さんや他の麻枝信者ズもずーっと指摘してるとおり「母」で。母を喪いかつ追い求めるのを家族と見間違えなきゃならなかったファン層やライター本人やエロゲの時代の要請てのは、つまり「母を見たくなかった」ていう話になると思うんだけど。

 麻枝シナリオの「母」は妊婦ファックと同根で更に一段階頭の中身が捩れ、妊娠を想像できない心理で描かれた妊婦ファック、ていう読み筋で大方は間違ってないと思う。だから汐が生まれて成長するとなると渚は死ななきゃならなかった。母親と娘を同一にしか見れないからONEの繭でいえば母親に吸収されるし、両者を別もの扱いしようとすれば片方が排除される。

 更科修一郎が麻枝セックスを生殖と結びついてるって麻枝インタビューあたりで発言してて、逆だろうと。多分「抜きゲー陵辱ゲーの生殖と切り離されたエロを裏返してるから生殖と結びついてる」て発想だと思うんだけど、これは例えば今木さんの「麻枝シナリオはセックスに頼りすぎ」てのと相反するわけです。物語必然性=男性主人公の人格・行動に深く結びついてるてことで、陵辱ゲーの陵辱は必然性あるエロ即ち肉体的快楽を中抜きしてく高偏差値向け建前と結びついた看板だからね。肉体的快楽としての性行為に軸足を置かずコミュニケーションとしてのセックスを行う根元は変わらず、どちらも生殖とは切り離されて成立してて、妊娠は否定しなきゃいけない概念(だから母は見たくない)となる。