で、いま

 鍵作品はもう京アニのTVアニメ版が本家、で世間では通る気がするんだ。ハルヒの原作者に小説家の名前が全く出てこないのと同じぐらいのレベルで。

 ただ、ハルヒの場合は作家の名前を忘れても通じる程度には原作もアニメ化作品も強度があったのに対して、鍵アニメは微妙にそーゆー強度に欠けてるせいで原作者の名前を担ぎ出さなきゃならないんだろうな、と。こんなバラけたシナリオを一本にまとめるノウハウなんて存在しねえよとか、1クールならともかく2クールもつきあってらんねえよとか含め。そーゆー意味で軸に欠けてて空虚で。でも、それはそれで見れちゃう。アニメを見る作法がそれなりに普及してるのは圧倒的に強い。この場合の作法ってのは批評的に見れるとかじゃなくて、どういう態度であれそれを見るライフスタイルが出来上がってる、という意味で。食事するのと殆ど変わらない感覚でアニメを見てられる。

 過去に「エロなんかいらないと暴言を吐くバ鍵」に対して反発したって経緯はつまり「新参でアングラ・プチアングラの作法を知らないライトユーザー」に対する反発、だったと思うんだけど。その程度でしかなく。

 今、TVアニメという手段を得て本当にライトユーザーのためのアイテムとして確立した鍵に対し、エロゲ全体は売れなくなり本当の意味でユーザーの少ないアングラに近しくなってるし。住み分けは無事完了して、鍵に対して反発する理由はそっちの領域からは無くなって。

 じゃ、そこに対して未だ反発する理由は何つったら。素朴にネームバリュー依存に対する反発なんじゃないかなぁ、と。京アニ、Key、麻枝准東浩紀、とかそーゆー「売れてる名前」に対する。で、ネームバリューへの反発てのはネームバリューへの依存なので、条件さえ整えばあっさり吸収される。

 そんな。