青紫シナリオ再考

 エロゲの同じ時間を繰り返す「ループ物」のシナリオは最終的に同じ文章、テキストを読ませるところに焦点が向かう。

 映画なんかで同じカットを再度うつして違う意味を読み取らせる、てのは「同じだけど違うんだよ」てのが前提にある。映画の冒頭にラストシーンをもってきて、同じシーンが見てる側が文脈を把握することで見えてるものが変わってくるとかね。

 ゲームのシナリオで文章でループを強調する場合、同じ文章はただ「同じ」だ。昔だったら同じだから読み飛ばしたりもしたところを、同じというところにループという言葉を当てはめて、同じであることを実体のレベルで裏づけを作ってまで、その文章が意味する先との対応関係が同じであることを守ろうとした。「ひぐらし」はそういう煮詰まった思考にたどり着く手前で留まってるので、シナリオが変わると同じイベントは起こらずに適当に流すようになってる。

 これは結構な差で、下のそれは同じであることを読者がどう読むかという文法の手順、受け取り方の操作を作品側で引き受けてない。

 こうしたループ表現を突き詰めてくと、全く同じ意味で使われる全く同じ言葉を全く並列に並べるという文章表現が成立するのだけど、それって、

お前がいま感じている感情は精神的疾患の一種だ
>しずめる方法は俺が知っている。俺に任せろ。

感感俺俺に至るはずで。

 青紫シナリオはレミィにしても志保にしてもヒロイン心理を最優先させてて葉鍵以降のエロゲシナリオの転回点と言っていいと思うし、このリアルリアリティ表現はゼロ年代を考えるにあたって押さえておくべきだろうと。