『428 〜封鎖された渋谷で〜』(PSP版・いまさら)

  • 1

コンピューターゲームの楽しみ、面白さとは何か、みたいな話がソーシャルゲームや何やかやで問われてる昨今です。
「ゲームとしての面白さ」ならば様々なボードゲーム、カードゲーム等々が比較に挙げられるわけですが、それだけで語れるものじゃありません。駆け引きの面白さがゲームの大きな部分であるといわれますが、しかし実際にコンピューターゲームを駆動しているのは駆け引きだけの話じゃありません。むしろ複数プレイヤーによる駆け引きの要素をコンピューターゲームにおいては殺していること、実質的に駆け引きが存在しないことのほうが、コンピューターゲームを語る際に重要なのではないか、と思う場面は多々あります。こう書くと「駆け引きのない作業ゲーを楽しむなんてヘタレな」と「ヘビーユーザーとライトユーザーの対立図式」という構図に落とし込まれたりするのですが、例えば、
http://www.scoopsrpg.com/contents/Ludology/Ludology_20090130.html
なんて記事は、携帯ゲー市場の席巻で、あっという間に時代遅れになってしまった感はありますが、様々な形で習熟してくことを焦点にあててます。
一方で、この習熟することを軸に語られるゲーム論というのは、習熟しない要素(「作業ゲー」だったり「偶然の要素」だったり)を切り捨てて考えるよう要求していくわけですが、そうやっていくとギャンブルというゲームの側面を意図的にか無視していくことになります。しかし賭ける、結果が現金のような成果と直結しているという行為はゲームやゲーム周辺の様々なジャンル(パズルやクイズでも懸賞金があったりプロスポーツ囲碁将棋カードゲーム等々でも賞金があったりする)で見られるわけですし、コンピューターゲームを金銭のやり取りと極端に切り離すのは、政治的・思想的な偏向であろうと思われるわけです。「金にならないことに熱中する」という特異性を強調するのは、しばしば金ではない様々な「その他の報酬」(擬似的なトロフィー、他者の賞賛、ゲーム中のアイテム・貨幣、エロシーンのCG、物語の展開)を与えられることで熱中する行為を否定していくわけで、様々に広がったゲームの多様性の殆どを否定していくことになります。ボードゲームのレビュー記事ですら「コンポーネントの美しさ」が評価されるのに。金銭が絡まないことはコンピューターゲームの特質でないことはRMTアイテム課金などで最早周知となりましたが、金銭については後述する「安心」の要素に関わってくると考えるべきでしょう。「金が絡んでいないほうが安心してゲームに熱中できる」というわけです。
ではコンピューターゲームをどう扱えばいいのかといいますと、やはり今そこにあるものを丸ごと肯定するようなところから進めて行きたい。複合的な要素の集合ではありますが、そこから絞り込んでコンピューターゲームを定義するならば、「他のことに気を逸らされてるうちに意図しない別の要素にはまってる」ということだと思います。
言ってることが判るでしょうか。「綺麗なグラフィックが見たくて頑張ってたらいつの間にか技量が上がってた」とか「目の前の敵をプチプチ潰す快楽に身をまかせてるうちに壮大なストーリー展開に感動していた」とか「女の子のHシーンを目当てにしてたら感動に泣き濡れた」とか、そういうのがコンピューターゲームの本質なのだと思います。いや本気で書いてますよ。
解説しますと、つまりプレイヤーのアクションに対してリアクションを返してくれるのがコンピューターゲームであると同時に、そのリアクションは必ずズレていく、ということが核心です。ズレたことが出来るんですね。それは、アナログゲームであれば将棋の手を指したなら相手が予想外の手を返してくる、というような「駆け引き」なりの領域に関わってくるのですが、コンピューターゲームがそれと違うのは、将棋で王手飛車取りを指したプレイヤーに対してスペードのエースを叩きつけても構わない、という点です。それはコンピューターゲームの側による「後出しジャンケン」なのですが、後出しがある程度まで許されてしまう。それは「万人が同じゲームをプレイしていて同じ条件なら王手飛車取りにスペードエースが返ってくる」というコンピューターゲーム特有の部分に拠っている。ルールが裏切られて話がずれて当初は予想しなかった領域へ連れて行かれる。いわゆる「ゲームの習熟」もまた、予想しなかった領域の一部である、といえます。
例えばゲームによる学習効果を喧伝するフレーズ「遊んでいるうちに、いつの間にか漢字の書き取りができるようになっている」というのは、「プレイヤーが他の事に気を取られてるうちに別のことをやってる」という言い方の変奏です。ソーシャルゲームの「ゲームで遊んで見知らぬ誰かと出会い系」というのは「遊んでるうちに他人とコミュニケーションがとれている」ということです。バグのあるクソゲーが遊べてしまうのは、時にはバグがゲームプレイのルールや攻略法にすら織り込まれてしまうのは、王手飛車取りにスペードエースを返すことが許容されるからです。これが対人ボードゲームですと、「相手が思いもよらぬ一手を繰り出してくる」というのは純粋にルール内で発揮される技量や才能の領域になってくるわけですが、コンピューターゲームでは、そうした「相手によるルール内の優れた一手」は残念ながら二次的なものです。コンピューターゲームの多くがプレイヤーとコンピューターの立場が非対称である(マリオとクッパは同じ能力でもなければ同じ行為で競争しているわけでもありません)から、当たり前ですが。
こうして、コンピューターゲームというのは、プレイしている最中にはロジックを受け付けない代物になります。プレイ後にロジックを後付けすることは可能ですが、そのロジックはプレイ前の予想と全く違っています。単純に特定の枠組みにおいて技量が習熟していくようなプレイヤーの行動を指しているうちは、コンピューターゲームが爆発的に広がっている現状を説明するには足りない。というより、それでは単なるシミュレーション(コンピューターの将棋ゲームは将棋のシミュレーションと言えます)です。もちろん、通常の多くのコンピューターゲームの場面において、王手飛車取りに対してきちんと将棋の盤面で対応してく必要はあるんです。そうしないとスペードエースで返すことの唐突さが失われますから。しかしコンピューターゲームが今や多くのユーザーを獲得している背景にあるのは、ゲームでありながらゲームではない、ルールを守りながらルールを破る、プレイヤーの予想を忠実に追いかけながらプレイヤーの予想を裏切る、にもかかわらず、その裏切り・ルール破り・ゲーム破壊が、あっさりとゲームの枠組みに組み入れられてしまう安心感にあるのでしょう。コンピューターという相手が自分を裏切らないことを知っているから、コンピューターの裏切りを受け入れる。他の事に気を逸らして目的がずれていく。

  • 2

さて、本題に戻りますと、サウンドノベルビジュアルノベル・ノベル物アドベンチャー等々の面白さはどこに依拠するのでしょうか。音のついた小説であること。Aボタンを押すことで読み進めていく、アクションとリアクションの快楽。絵の魅力。それらは全て魅力です。では、何故か必ずついてくる選択肢にはどのような魅力があるのか。
予想外の展開、というのが根本にあるのだと思います。Aを選んだのとBを選んだのでは展開が異なる。どちらを選んでも同じ展開というのも多々ありますが、やはり期待するのはAとBの選択肢で全く異なる展開になることです。そうでないと枝分かれする意味がありません。
一方で予想外すぎる展開ではついていけない、という意見も目にします。そうした意見者は何を望んでいるのでしょうか。予想外の展開であっても、プレイ後にその予想外の展開を織り込んだルール・枠組みが出来上がっていることです。彼らはサウンドノベル等々に、コンピューターゲームとしての枠組みを要求します。ノベルと銘打っているのに、なぜでしょうか。彼らはそれをノベルだとは思っていない、というのはありそうです。ノベル単体として面白がれるほど文章が上手くない、とも言われそうです。しかし実は、そもそも選択肢のあるノベルに詩や小説としての審美を要求するのはお門違いである、といえます。だって、AとBのその後の展開によっては、それまでの文章の文意だって違ってきてしまいます。例えば、

俺は A:男だ。
    B:女だ。

「俺」の性別が変わりました。作家はいったいAとBのどちらに寄せて「俺」という語を「私」や「僕」やその他の表現から選び取るべきなのでしょうか。細かく言い出せばニュアンスが全部違ってきてしまいかねない。現実問題としてシナリオライターはそこまで気にしていられませんから、キャラクターや設定などの大枠を決めて(大概は「俺は男だ」という部分はキャラ設定として固定し選択肢で変更しないようになります)大雑把に括って書くことでしょう。もしも細かくこだわり始めたらどうなるか。私たちはそれらの実例を既に知っていますが、今回は飛ばします。
私たちはサウンドノベル等々によって、小説というジャンルの解体を目にしています。これは音や映像がついているという以上に、小説という言葉に拠って立つジャンルとは違うもの、なのですね。サウンドノベルを読むとき、読み取っていく言葉の不安定さに直面することになる。「シスタープリンセス」というギャルゲーがあります。かのゲームはプレイヤーの選択によって目の前の少女と兄との血のつながりが変わる、「血縁エンド」か「非血縁エンド」かを選べるシステムが話題になりましたが、それから10年経った今、そうした「プレイヤーの選択次第で設定レベルでキャラクターの物理的実体が変わる」展開はまず行なわれなくなりました。シスプリはそれ自体がイレギュラーとされ、ギャグか、ちょっとした思い出話の対象となりましたが、その後継は出ません。それぐらい、サウンドノベルの選択肢というのは手に負えない代物です。文章を書くのが仕事のシナリオ書きからすれば、自分の書いた文意がシステマティックにプレイヤーの手でいくらでも変わる可能性などというのは、抹殺されてしかるべきです。
長くなりましたが、サウンドノベルの選択肢の本質がようやく見えてきました。選択肢は予想外の展開を演出する効果を持つ。が、文のコントロールがきかなくなりすぎるが故に、予想外すぎる展開を示してはならない(実際にはグラフィックに依拠して文意をコントロールするなどの手段は可能ですし、実例としてそうなっていたりします)。サウンドノベルの選択肢は様々な意味でルールを解体します。文章のルールを、ゲームのルールを、ダイレクトに壊してしまう。なぜでしょうか。それは「ノベル」において、実質、どの言葉を選んでもルール違反ではないからです。だから「選択肢」という将棋における指し手は、「ノベル」において将棋と比較にならないほど無限大です。小説はどう書こうと自由ですし、どのような形でも小説であると自称できます。だからこそ、選択肢という自由は小説が持つその自由を解体する。
AとBが並列であるような文章は、AとB以前の文意を多重にしますし、のみならず、AとBは相互参照しあうことによって互いの文意を束縛します。例で言えば「俺は男だ」という文意は「俺は女だ」という文意に照らされて、それと照応しあうものとして読み取られ文意の多重性を奪います。男という単語は女という単語と対比的であるような意味合いを強く主張するようになるわけです。もしくはAとBの互いを参照しない読み方というのもありますが、その場合、AとB以前の「俺は」もまた文意が分裂し、まとまりません。それらを統合する新しく創造された文意を読み取るという裏の手もありますが、そうなると「俺は男だ」という一文での元来的な文意はスポイルされることになり、と、この先は延々と理論のメタゲーム化と文意の崩壊が続きます。ノベルゲームがかつてスリリングであったというのは、ひとつにはそういう文意の解体の側面があったからでした。一部エロゲ論者でいわれる「Kanon問題」というのは、そうした文意の解体されていく現場をあえてキャラクターの浮気といった倫理意識のレベルまで矮小化していくことでサウンドノベルの読解方法を一定のジャンルメディアの枠組みに回収しようという試みでした。

  • 3

しかし一方で、サウンドノベルの選択肢はコンピューターゲームの形式を解体する役割も引き受けていました。コンピューターゲームとしてあるべき安心の構造がないからです。安心の構造というのは、一定の形式性、枠組みの中にコンピューターゲーム的な「裏切り」を回収する仕組みが働くことで成立します。王手飛車取りに対して最初にスペードエースを出し、次に名古屋打ちで返し、さらに鉄山コウで決めてくる、となっては「他の事に気を逸らされて、逸らされて、逸らされて、」で、いつまで経っても「いつの間にか別のことにはまっている」ところにたどり着きません。この場合、コンピューターゲームであるところのサウンドノベル等々が目指す枠組みというのは(現実的には「ギャルゲー」その他に様々なゲーム形式に暫定的に帰属させるほうが多いわけですが、根源的にという話として)、その文章を「ノベル」という形式に帰属させることです。コンピューターゲームとしての「サウンドノベル」は、ある意味で形式的には「ノベル」の「シミュレーション」なのです。そして「ノベル」には、文章を読む以外の形式はありません。つまり、どれだけ形式を捜し求めても、どこにも定着しえないのです。ルールや枠組みが定まらないということはルールを裏切るという行為すら無効化されていくことを意味し、プレイヤーを裏切ることで成立してきたコンピューターゲームの特異性が破綻することになります。他の様々な文章を模倣して私化する小説という手法と、他の様々な形式をエミュレートして自動化するコンピューターゲームという手法が、ウロボロスの蛇のように互いの尾に食らいついた、この極めて珍しい出会いにこそ私たちは興奮しました。
サウンドノベルにおいて、選択肢が機能不全に陥っていることに注意してください。ノベルという形式をエミュレートしている限りにおいて、選択肢に正解はありません(多くの実際のサウンドノベルでは後述するように推理小説の犯人あてのような「正しい選択肢」を用意しています。今回は、小説という文章の叙述をエミュレートしていくというところに絞り込んで話をしています)。文章がどのような続け方をしようと、それが小説という言葉の自由を謳歌する形式である限り、間違いは存在しません。何をやろうと自由である、というのは、たとえば現実を忠実にシミュレートした海外の箱庭ゲームでよく見かけるキャッチフレーズでありますが(そして日本でも以前はよく「何をやろうとプレイヤーの自由である」ことがRPGなどのゲームのキャッチフレーズとして通用していました)、しかしそれは、どれほど精巧に偽装されようと、限られた操作方法、限られた時空間においてのみ成立する自由であることは、今では誰でも知っています。サウンドノベルの選択肢は、その「自由」が言葉という究極の記号に与えられた場合、際限なく膨張し作り手や受け手の思惑をあっさりと乗り越えて作品の枠組みを破綻させていく、という、考えてみれば当たり前の事実に、いともあっさりと触れてしまいます。小説の自由さは、それがただ一義に作者から読者に与えられる一列の文章であることによって、私的であることによって、言葉のコントロールを請け負っていました。コンピューターゲームは自由にルールを改変するにあたり、多くのプレイヤーが同じ体験をしているという裏づけによって成立していました。選択肢は「あなたならどっちを選ぶ?」と、「あなた」を浮き彫りにします。小説の言葉がどれほど「あなた」と読者を名指そうと、その言葉が作者、つまり書き手自身である「わたし」でしかないのとでは、どれほどの隔たりがあるか判るでしょうか。コンピューターゲームの「いつの間にか自分の意識していたのと別のことにはまっている」という特質は、「あなた」と名指されていくうちに「わたし」の形がコンピューターゲームの指名する形の「あなた」に変質していく(正確には「あなた」になる前は「わたし」ですらないところに「あなた」を形作られ、別に所在していたはずの「わたし」があったところが忘れ去られる)ことにあります。しかしノベルゲームの選択肢は、小説を形作ろうとするその運動によって絶えず「わたし」を思い起こそうとすることで、コンピューターゲームの「あなた」を拒絶するのです。(一部のギャルゲーはそこに男と女の出会いを重ね、「あなた」と「わたし」の全く異なる媒体・概念・枠組み間のコミュニケーション/ディスコミュニケーションを描きました。後述します)

  • 4

ソーシャルゲームや教育ゲームといったゲームの現実への働きかけが取りざたされる昨今ならば、この意味はますます重要になっていきます。「『ミステリーハウス』で遊んでいるうちに、いつの間にか英単語を覚えていた」「シューティングゲームで遊んでいるうちに、いつの間にか米軍の軍事訓練に習熟していた」「ミニゲームを使ったゲーミフィケーションで、いつの間にかモチベーション&営業成績アップ!」という、この「いつの間にか」を、「サウンドノベル」の選択肢は穿ちます。このサウンドノベル等々がコンピューターゲームの本質を深く抉り解体するという事実は、現在様々な形で社会の諸相と交わり現実の一部たろうとしているコンピューターゲーム(およびその背景となっている技術的諸相)に対してノベルゲームが強力な批評手段足りえることを意味しますが、その話は今回は置きます。実際のサウンドノベルの系譜は、そうした根源的批評能力を発揮することのない形へと変化していきました。理由は、私たちがそのようなゲーム批判も小説批判も別段求めていないからです(実際、楽しめればそれでいいのです)。そのかわり、サウンドノベルは、例えば推理小説といった小説の中の限定された様式の中に安定を見出そうとしたり、映像表現としての新しい形式を見出そうとしたり、していきました。「ノベル」としては波風をたてない程度にゲームらしさを取り戻し、それにより折り合いをつけようとしたのです。本作「428」は、そうした「新しい映像表現としてのサウンドノベル」と位置づけられます。

  • 5

解説していきます。サウンドノベル「街」で開拓されたのは、実写スチール写真をグラフィックとして採用した、静止した実写画像の紙芝居劇による映像表現でした。映画のような動画と違うのは、綺麗に決まった構図以外は一切存在しないこと、です。絵の全てに意味があり、実際、細部まで意味づけされている。余計な情報はシャットアウトされています。結果、いわゆるところ、マンガ的です。濃ゆいところをより濃く強調して、可愛らしいところはより可愛らしく、となっている。絵的には「街」よりも動きが強調されてます。おそらく実際の実写で見る以上に劇的に派手に動いているように見える。「428」内にはオマケシナリオとしてTYPE-MOON担当のアニメ絵のビジュアルノベルが収録されていますが、そちらが派手なアクションを扱いながら絵としては極めて静的な絵ばかりになっているのと対照的です。428本編が映像を軸にして文章はサブになっているのに対し、TYPE-MOON担当分は文章が軸で絵がサブになっている、という違いでもありますが、個性的な顔つきの役者を集めてきて顔のアクで絵を持たせようとしている実写と、美麗で個性に乏しい顔輪郭の美少女たちの舞うアニメ絵の違いでもある。絵作りとして「街」よりも「428」のほうが実写である意味づけ、映像表現として、成功しているように見受けられます。音声が一切ない(TYPE-MOON担当アニメ絵シナリオでは喋りまくる)ために、濃い顔つきや可愛らしい顔つきに想像力を刺激されて、そうした顔にあわせた理想化された音声が頭の中で鳴らされるのも映像に特化した作品として可かと。これが実際に喋らせるとなると、喋るほうに映像送りのリズムを合わせなければならないので(エロゲだと音声を早送りしまくるわけですが)、映像表現としては弱くなるかと思われます。

  • 6

様々な登場人物のザッピングによるシナリオ進行ですが、これは明白に映像表現側に主導権を渡し、文章自体は物語のコントロールを放棄して「ゲームらしさ」に従事し回帰しようとする目的に沿って作られています。複数の主人公が設定され、ある主人公の選択肢のもたらす結果がしばしば他の主人公の行動に影響を与えるという形式は、選択肢の役割を分解し使い分ける目的で導入されました。ある主人公においてAという選択肢を選んだ結果が、別の主人公の物語を進めていく。選択肢によってもたらされる「意外な展開」が、別の主人公の物語に回収されていること、本筋以外の「意外な展開」はバッドエンドとして一律に処理されていることに注意してください。
つまり「意外な展開」は全部、それぞれの主人公の「本筋」の中に回収され、意外じゃなくなっているのですね(さらに言えば、細かいその他の展開については、全て番外編のオマケとして扱われています)。別に「428」だけの話ではなくノベルゲームは多くがこうした枠組みを用意しています。ギャルゲーのノベルであれば「ヒロインキャラクターとのハッピーエンドを目指す」といった枠組みが用意されていますし、「街」や「428」の複数の主人公は、このギャルゲーの各ヒロインキャラクターと基本的な役割は同じです。ですが、ギャルゲーのヒロインキャラクターであることと、一般的な物語の主人公であることとは、この場合、全く逆の働きをします。ノベルギャルゲーにおいて、選択肢の選択の主体は原則として一人の男性主人公にのみ帰属し、シナリオを管轄するヒロインの側の視点が不透明で晒されないままであった時代、ヒロインの人格は物語の寄りしろとしては不十分でした。限られた視野からのみの情報では、彼女の人格について確定的なことは何一つ語られ得ないからです。表ではニコニコと男と戯れながら裏では何を考えているのか判らない、そうした人格にゲームのルールを預けることはできません。
彼女の人格とはプレイヤーが読み取り投影する「あなた」であって、「わたし」ではない。この「あなた」がコンピューターゲームが要求してくる「あなた」というプレイヤー像の鏡写しであることに注意してください。コンピューターゲームはプレイヤーをゲームに巻き込み「あなた」を作り出しますが、しかしそうして与えられた「あなた」は本当のところ何を考えているのかわからない(キスやセックスはさせてくれますし、幼少時のトラウマを披露してくれたりもしますが、つまるところ身体を許され、かつ幼い頃の痛々しい記憶まで暴露してもらわないとヒロインに対し曲がりなりにも安心できないのです)赤の他人であるヒロインの像です。しかし一方で作家の提供する物語であるノベルギャルゲーのシナリオは作家という「わたし」を読み取ることで読者としての「わたし」を作り上げていく営為をゲーム中に再現するものでもあります。与えられたシナリオを読み取る「わたし」と選び取った物語に映し出される「あなた」は分けようもなく結びつきようもありませんが、ひとつの文章の中にそれぞれが存在しています。ギャルゲーにおいて展開が意外であったというのは、ヒロインという枠組みが原理的に最後まで全容を開示されないことにありました。(『ONE』の頃、エピローグにおけるヒロインの独白は極めてスリリングなものだったのです。もちろん、そこから次第にヒロインの独白はなし崩しに受け入れられ、またヒロインもツンデレを経てヤンデレ等々と露悪的な様式へと変容していきます。ニコニコと優しく受け入れてくれるヒロインよりも浮気に怒って包丁を突きつけてくるヒロインのほうが常識的で本音で語っているように見え、彼女の心情の底が見えて逆に安心できるというわけです)
一方、「428」ではスチール写真の中にそれぞれの主人公を演じる役者が写し出され、その役者の姿や顔が軸となります。文章は三人称で、ギャルゲーヒロインのような見通しのきかなさはありません。本筋とバッドエンドに綺麗に分類された展開は多様性や意外さよりも文章自体がゲームとしての一定の形式を請け負うために作られ、各々の主人公は本筋を請け負うがゆえにストイックで羽目を外しません。遊びや無駄な領域をバッドエンドに至る展開が請け負ってしまうために、「バッドエンドではない」本筋には無駄がない。今回の5人の主人公たちもまた行動原理は非常に単純で(加納の「デカの心得」など非常にわかりやすく提示されます)幅がなく、かわりに個性的な脇役たちが縦横無尽に渋谷の町を飛び回りますが彼らは大枠の本筋ストーリーには全く絡みません。結果ストーリー進行の都合でわりを食うのがアクションシーン担当の主人公たちです。「428」は全体をひとつの大きな事件としてまとめようとしたために余計に遊ぶ余裕がなくなり、街中を大したイベントもなく、似たようなシチュエーション下をえんえんと走っているだけの主人公が五人中二人もいてシナリオの本筋の部分だけ取り上げてみると随分と面白みに欠けます。映像面で言えば走ったり戦ったりしていますから、ある程度は映像サイドに寄せたため、と言えますが、一方で自宅待機で座ったままストーリーの伏線を解説するだけの主人公というのもいて、これまたいわく言いがたい無力感が漂い、えんえんと心理独白を繰り返すことになります。
実は、身体は動き回っているのにストーリーとして見るとほぼ棒立ちでなければならない原因は、選択肢で分岐するときの選択が他の主人公の行動に影響を与えるという仕組みに依拠します。そのストーリーの主人公の命運が他の主人公の行動によって決定されてしまうとは、主人公の行動決定では自身の行動の行く末を直接左右できないことを意味します。主人公はおのずと受身にならざるをえない。シンプルな行動原理で動く以外の個性を発揮する場がないのです。主人公たちの中で殆ど唯一、八面六臂の活躍をみせる御法川は報道記者という局外者の立場で事件に関わる位置づけですし、実際、クライマックスでは出番なしです。大枠の本筋ストーリーを進行する役と脇でエキセントリックに画面を彩る役が綺麗に分かれてしまっていて立ち位置が入れ替わらない。
選択肢で自由に選べるがゆえに、行動が逆に強く縛られて身動きがとれないという逆説は、ノベル系のゲームでは典型的なものです。一般的な小説であれば登場人物たちは「どちらの道を進めばいいか」について大いに悩み、ジレンマに板ばさみになって、迷いながら行動していき、そのために思考と行動が食い違ったりしながら前進していく。ところが、選択肢で思ったとおりの行動が出来てしまったら、思考の幅など生じようがありません。だって間違えたら元に戻ってやり直せばいいのですから。そうやって正解だけを歩んでいく主人公像ではドラマもへったくれもありません。(ではノベル系ゲームはどうしてきたかといえば、エロゲで一時期顕著でしたが、ドラマを面白くするように、選択肢をなくしてしまったり、あるいはプレイヤーの選択を裏切ったりしてきました。「ひぐらしのなく頃に」の作者など、プレイヤーの思考を裏切ることしか考えないでいたため、逆に、どんどんと隘路に迷い込んでいってしまったぐらいです。あるいは内省的態度に極度に特化することもやってきました。今の僕はこんなことをやっているけど、内心はいろいろ悩んでいる、というわけですが、まあ、言い訳くさくて鬱陶しい。結局のところ、大事なのは適度なバランスとテーマに沿った記述・システムということです)「428」はゲーム的であることに拘りすぎて、見事なまでにサウンドノベルの罠に引っかかり、シナリオとしては盛り上がりに欠ける代物になってしまいました。

  • 7

では、どのようにすればよかったのでしょうか。個人的には、この手法での「ノベル」としての可能性は、望み薄に思えます。映像作品としては面白い実験だと思いますから、そちらの方面で映画やアニメと異なるブレイクスルーを見出せればいいのではないか。ただし、今の時点ではまだ斬新であるとは思えませんでした。日本にはマンガ表現という非常に卓越した表現手段がありますから、実写映画とマンガの合成的な位置づけを目指していけば、面白くなるかもしれません。
なお、雑談になりますが、このソフトはファミ通のレビューで高得点を取ったという話でした。技術的に非常に手が込んでいるのは間違いなく技術点の意味合いならば高得点なのも納得がいくのですが、娯楽として考えた場合、今さらファミ通のレビューの偏りを指摘するのも馬鹿馬鹿しい話ではあるのですが、上記のようにサウンドノベルの形式の可能性の面でいえばギャルゲエロゲで先行しているものが多々あるわけで、本作に高得点を与えるのは疑問です。製作予算の多さが点数であるかのようなレビューというのは、ゲーム業界の先々に悪影響を与えるのではないかと疑念に思うところです。