「繰り返す」のの、なにが問題なのか

 ゲームシナリオで、ループすんだかの、ナニが問題なのかという、そういう問いをたててみたとする。別に、たてなくてもいい。俺はWIZでいくらでも時間を潰すサルになれる人種だし。時間を無駄に潰し何も残らないメディアにおぼれ建設的発展的前進的であることなど全くどーでもいいときと、ときどき人恋しくて道端でまるきり歩けなくなって暫く立ち止まってしまうあたりに追い込まれてから他人と会話できるネタがないので仕方なく「新しいネタ」に手出しするとゆーよーなときと、そのへんをてきとーに交互するだけの一般的ゲーマーの生に意味や価値を見出すほうがバカだと思うが、まぁ、そのへんをはずしといて、問いをたてたとしよう。

 文章の、言葉の、参照先が「自分自身」であること。これが、ゲームのシナリオで同じシナリオを繰り返すことの、「シナリオ」や「小説」の側から見た、一番の問題だろう。

 言葉は、あたりまえだがスタンドアローンではない。あっちこっちから、誰かが使った言葉のコピー&ペーストを際限なく繰り返してった果て、そこに言葉はある。

 で、繰り返されてくシナリオ。選択肢やキャラクターごとの分岐による、細かな、あるいは大きな差異がクローズアップされてしまうとき、その参照先として、すぐ目先にある「異なる選択をしたときの文章」が発見される。では、その参照先にある言葉を吟味しようとしたとき、次に何を参照先に選ぶかというと、やはり「異なる選択をしたときの文章」が見出される。こうして、言葉の参照先はぐるぐると循環することになる。もちろん、深く突っ込もうとするほど、ゲシュタルト崩壊するぐらいには言葉がなんだったのか見えなくなっていくだろう。

 もちろん、この物言いには言葉のあやのとこが大きい。日本語を読む以上は誰でも、何十年かの学習してきた言葉に関する知識がまず参照される。

 ただ、ちょっと勘違いして、ゲームシナリオについて深く突っ込んでやろうとか、ちょっと深いシナリオを作っちゃおうかなー、などと誘惑されてしまったときに、互いに参照しあうよう要請してくる双子や三つ子の言葉たちが小細工に絡みつき、そういう元からの参照元へのリンクの比率を下げてく。

 もう少し言えば、リンクに飛ぶときに生じるラグや飛躍など、言葉を読むときの基本的な面白さ成分みたいのを、「自分自身へのミニマムな参照」で使い果たして磨耗させてく。