さておき。

 3話の「そこにいる」と「どこにいる」の話。

 えーと、りすかで、あるいはきっと、りすかの元ネタのジョジョで、空間が時間に互換可能なのは、二者間の相対で距離や時間を計ってるからで。

 推理モノが時刻表や時間差アリバイを組み立てに使うのは、被害者と犯人との間の関係性が、とりあえず一旦破綻して、死体や凶器や密室といった絶対空間の中で座標と質量を与えられてるようなモノへ置換されて、それを世間常識的な因果関係とゆーか科学的捜査とゆーか、みたいののロジックに回収するていう手順があるからで。

 時刻表も、確率も、空間化された時間なので、時間化された空間とは関係ない、というのは当り前ではあるのだが。それを言っちゃうとおしまいなんだけど。

 あー、時間化を説明すれば繋がるのか。まず、関係性の側からすると、未知の、どこにあるのか判らない点に対して繋げることはありえない、というか、線が先にあって点はあとからくるので、線がスパッと引かれたときには、その両端にある点は既知なんで、いわゆる未知であるような未来に点を置く、というのはありえない。というか、補助線を引いて既知になっちまったようなものが僕らが通常思い描いてるような未来であって、そこで証明した後に補助線を消しゴムで消して、その結果として線が見えなくなって、それを未知の領域として錯誤するからオカシクナル。

 りすかはもちろん、そこんとこ判った上で、個人の人格てのは勿論固有のものなのだ、という、えー、推理小説ネタ的にどうよそれ、みたいな世間一般的な新青春なカンジを上手いこと使って未来の人格ていう点を作ってる。そこで人格なんか存在しませんよ、などと非難する人は普通は居ないのでOKなのだが。ズルイよなあ。推理小説が一生懸命に作って砂上の楼閣を、砂上の楼閣だからってだけでぶっ壊して、それで文学だって主張できるってんだから。