「氷菓」とりあえず終わりまで見た・ネタバレ

先日「ガールズ&パンツァー」を見て、五十鈴華の実家まわりの、華道の描写の雑さが気になりました。
具体的には、10話の華の生けたという花がパチンコ屋の店頭に飾ってるよーな代物にしか見えない、といったあたりや、戯画化されまくってて実際の生け花と関係なさげな華の母の台詞など。
故・首藤剛志がコラムで「シナリオで絵画『名画』などと気楽に出すやつはダメ」といった話をされてまして。こういうことなんだろうな、と。
ガルパンてのは、少女が戦車で戦うというシチュエーションを、茶道や華道、武道と同様の、実作業を通して精神修養する「戦車道」という文化がある、という設定でもって説明します。そんな話のなか、五十鈴華の華道をめぐるエピソードは、主人公の西住みほのストーリーラインと対比されるように挿入されてる。華道の家元である実家との対立と和解てのは、みほのそれと基本的には同じでさ。「戦車道」という設定が、言うまでもなく荒唐無稽な絵空事である以上、その設定を外枠から支えるストーリーラインであるはずの華道をめぐる話って、大事なんじゃないかしら。
実家の家元の教える・母が娘を叱り拒絶する根拠である「戦車道の正しいありかた」というのが、みほが対決し乗り越えなきゃいけないものだと思うわけですが、その「戦車道」の乗り越えなきゃいけない部分てーのが、あいまいでして。スノビズム的なものなのか、ジェンダー的なものなのか、「戦車術はどれだけ言いつくろおうとも所詮は殺人術」みたいなものなのか、よーわかんない。そうするとね、戦争の道具である戦車を「道」にしちゃってる設定を説明するにあたって、華道というのを対比として出すのは、戦車道て何なの、みほがストーリー上で乗り越えなきゃいけない核心部分はなんなの、という説明の役割を負っているはずです。
が、そのへんアバウトです。ステレオタイプなストーリーだから台詞もシチュもステレオタイプでいいや、みたいな手抜き感が感じられました。
まあ、別に、戦車同士が戦ってれば良いっちゃ、それでいいんですが、ストーリーにも、ストーリーを支える描写にも、みほというキャラクターを掘り下げるような説得力が欠けたんじゃないか、それによって、戦車に興味ない人に対してもストーリーを通して訴えかけるという道筋を失ったんじゃないか。そんなことを感じたわけです。まあ、僕個人は「凄い動画だろ?」でも別に満足はするんで、単なる言いがかりかもしれませんけどね。 
 
 
んで、ひるがえって、氷菓です。

最後の話が明確に「えるが土地神様」みたいな作りになってて、ああ自覚的な作りなんだなと思いました。

全般に、人間の情念みたいのを扱ってる割に、人間心理の扱いが雑で、これは「謎解き」から話を作って心情の流れは後づけで作ってるとおぼしき原作のせいだろなと思います。具体的には話の中心にいる人と脇の人たちの扱いの差が歴然としてて、「犯人」の心理についてはこだわるけど脇の人の心理は気にしない。これ、「どこまでいっても本心を理解することができない赤の他人の事情を、外からの視点でもって暴く」とゆー推理探偵ものとしてみた場合、つまり「誰が犯人か判明するまで主役と脇役の区別をつけちゃいけない」、客観の立場にこだわんなきゃいけないはずの形式としてみた場合、割と致命的に失敗じゃないかと思う。
あるいはね、トリック暴きみたいな、犯人の本心がどうであるかはどうでもよくて、とりあえず物理的にどういうことが起きたかを解明する「本格推理」だったら、そういう、人間心理の扱いが二の次、みたいな態度は許容されると思うのね。大事なのは人間の心理じゃなくて、客観的な事実として何がどう起きたかだから。だけど、この「氷菓」みたいに、探偵役が行ってるのは、事実として何が起きたか解明することじゃなくて残された状況に一定の説明を与えて場を平穏に戻すことだ、みたいな京極堂の真似事やる話だと、主役脇役含めて全員の心情に整理をつけるんだから、扱いに差をつけたりして、心理の動きが粗雑に見えるというのでは、やる意味がない。
創作物は、すべてを拾うわけには行かないですから、芯の部分が一貫していればいいと思います。逆に言えば、芯がないのでは「既に知ってる話を組み合わせただけ」になる。知ってる感情、知ってる原因、知ってる状況に落とし込む。既知だけあって未知はない、パズルの組み合わせのようなもので、それってのは、五十鈴華が否定した今までの自身の華道、西住みほが対決しなきゃいけない西住流戦車道、じゃないのかな。
そんなわけで、「氷菓」は次第に、犯人役と探偵役の共犯関係、コミュニティ構築のほうに主軸が移っていきます。その結果「被害者」がどんどん薄れてく。怪盗と名探偵がキャッキャウフフするときってさ、昔だったら、特権階級や法で裁かれない悪党が被害者で、そいつらが酷い目にあったままでも、読者はそれで溜飲を下げてオッケーだったりするわけですよ。けど、「氷菓」の直接間接の被害者たちって、ようは普通の人たちでね。彼ら彼女らが、自分に関係ない事情でもって嫌な思いをしたままでフォローがないことについて、「人が死なない話」だからいいだろ?と言われてもね。

まあ、そんななか、千反田えるという存在そのものが、次第に作品世界の調停者、半神みたいなものになっていったんだな、と確認したのがアニメ最終話でした。かの地において人の犯した罪は千反田えるが許す、みたいな。生きびな、ひな人形だもんなあ。人の身にして穢れを引き受ける、てのも凄い話です。ここから逆算して、アニメのえるの造形がああなったんだなと。間接的に嫌な思いをした被害者たちが直接えるに石を投げるわけじゃないあたりで問題はちっとも解決していませんが、人工女神みたいな代物だからね。いやまったく佐藤聡美のキャスティングはお見事としか。