ひぐらしのなく頃にネタバレ。

 以下全て『フラット・カルチャー』(せりか書房2010年10月)「新聞的「言論」の現在形」(遠藤知巳)より引用。

マス・メディアについて見れば、新聞の発行部数は中国に次いで二位。アイスランドノルウェーに続く世界三位の新聞普及率は、人口規模を考えれば驚くべき数字である。アメリカは日本の一/三、英仏独ですら半分程度かそれ以下しかない。テレビの平均視聴時間は三時間半前後で、アメリカと並び、世界でもっともテレビを見ている国民の一つだろう。
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あれだけ新聞を罵るネット住民たちが、疑わしい発言に対して、アップされた新聞記事という「ソース」を当然のように要求する。(中略)懐疑と「信頼」の循環に自足できている(中略)この社会における「言論」は、新聞的なものの引き延ばしと分散でありつづけている。ネットの書き込みやおしゃべりとの境界を曖昧にしながら、新聞がいまだに「言論」の顔をするしくみがある
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欧米的なジャーナリズムの理念を本気に取る立場には(中略)署名記事の制度化を提唱したり、記者クラブの横並びの閉鎖性を告発したりするが、(中略)新聞業界が小さい欧米では、ジャーナリストは地道で効率の悪い取材活動をなるべく通信社に外注し、作者性を売りにして渡り歩くしかない。捏造記事スキャンダルの規模と頻度が日本の比ではないのは、作者性の制度化の裏面だろう。そこまでいかなくても、読む人が限られているところでは、多少机上の空論であってもかまわないし、事実誤認も後で訂正すればすむ。新聞が「みんな」のものであるところでは、もともとそうはいかないのである。
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 細かい地域差などの疑問点はあるだろうが、現状がおよそ引用のような「みんなが共有するコトバの場、メディアが存在し自明視されているのみならず、みんながそれに参加している」状況であるなら、たとえば「犯罪事件の真実」、それに依拠して成立する「推理」など、すこしばかり小説業界の打ち出してみせる用法と意味が異なってくると思われる。
ひぐらしのなく頃に」における「惨劇」とそれを巡っての「ループ」は、作者の粗雑さや職業からくる意識形成もあって徹底的に作家性を否定し愚弄する。RPGにおけるゲームマスターとしての立ち場をおそらくは自認し、ただ「遊び場の維持」にのみ腐心するのが竜騎士07の作法であって、それは「奈須ワールド」をというオリジナル設定世界をキャッチコピーとする型月のそれとは異なる。

ひぐらし」シリーズを特徴づけるのは1作目以降だだもれのようにして解体・崩壊していく「ゲームとしての体裁・ルール」である。おそらく竜騎士07自身はこの「ゲームの崩壊」の過程を自身コントロールできている・あるいはコントロールする必要すらないと考えているらしく、この根拠のない自信もしくは投げっぱなしであってもゲームの解体はどこか程ほどのところで勝手に留まるだろうという、いわば「市民の公共性・善意・良識にお任せ」の常識感覚を保持し続けられている思考が、「ひぐらし」シリーズにおいて容赦なく「ゲームのルール」を解体してきた背景にある。壊したところでどうせ何も変わらないことが判っており、その達観した(一般的な)意識のあり方が同人作品らしさであると同時に、最初から業界内部的な意識に通じていて変節するタイミングすら持ち合わせないという意味合いでニュー商業スタイルでもある。それを竜騎士07の職歴と重ね合わせてみる行為は、さほど間違ってはいまい。

ひぐらしのなく頃に」では、クライマックス、ひとつの村二千人が、まるごとが全滅する。前半で自然災害として語られ、後半の「謎解き」では日本政府の陰謀で組織的に虐殺されたことが明かされる。この謎解きの中身はだいぶ陳腐で、それなりに雰囲気の良かった前半から続けてみると話としては盛り下がる。その陳腐さを「同人作家ゆえの未熟さ・練れてなさ」に求めるのも間違ってはいないが、一方で「ゲームの解体」を一貫したテーマとして扱っていると見なした場合、これは「天災の解体」であり「社会性の解体」である。
 もともとダム建設を巡るトラブルやそれを巡る村落共同体内部の陰湿な人間関係の構図など、一見して「社会派」めいた描写を通じて地に足をつけていた本作は、特殊訓練を受けた秘密部隊が数十人がかりで村人二千人を殺してまわる(しかも銃器でではなく、毒殺で)という光景の間抜けさ、非効率性、頭の悪さ、権力の無駄遣いぶりによって、極めて抽象的な観念闘争の構図へと物語の外見を変化させる。なぜそうなったかといえば、直接的には、「○○篇」を幾度も繰り返して作中の設定を消費していくごとに、話を駆動させるためのネタが尽きていったためである。物語の背後にうごめく人間関係の軋轢・摩擦も、一度使ってしまえば二度目は使えない。それならば物語の赴くままに人間関係が新たにこじれていくのかといえば、しかし時計の針は先に進まないため人間関係はリセットされ元に戻る。幾度かのやり直しを経てネタを使い果たしていった結果、物語は社会や天地自然と連結するための取っ掛かりをなくした状態で話を進めなければならなくなる。

 ひぐらし終盤においては、強い人の意思の方向性だけが、ループしたあとの展開が変わる/変わらない条件だと説明される。全ては明確な人為に還元されなければならない。しかしそれは、ループによって結果的に人の意思が浮き彫りになる、ということだ。一見して「社会派」のごとくに見せかけていた背景の人間関係や自然環境、社会構造などは、ループによって蕩尽され擦り切れて、登場人物たちの心理や人格から切り離され、結果、外界と無縁の抽象的・形而上的な「人の想い」が煮詰めたようにして抽出される。順序としてはこのようになる。

 元々「社会派」のたぐいは大前提として人の意思の善性に依拠し物事を分析してみせる代物だ。性悪説に基づいて全ての人が陰険狡猾に動くものとして事件を分析し説明してみせたら「社会派」は(というより社会という前提条件の定義づけが)成り立たない(ホラーは成り立つ・そこに「ひぐらし」をねじ込ませた隙間がある)。ドキュメンタリーふうに説明を抑え事実の羅列に勤めるのであれば、その無邪気さは事実の向こう側の見えない領域に隠され(隠れるように視点の配置を操作す)るが、ループして何度も解説を加えていった結果、その無邪気さが露出したのだともいえる。

 定番ジャンルとして定着してしまった感のあるコミケ文化圏界隈の「ループ物」は、どれもこの理屈が働く。幾度も同じ時を繰り返していくことによって、登場人物たちの心理や人格が外界の諸事情から切り離される。キャラクター自身がループを認知しているか否かは、この場合関係ない。認知していなければ細かく再検証される状況下で「本当の人格」が浮き彫りにされるし、ループを認知していれば外界に対して不感症のふうになり、結局のところ外界から切り離された存在になる。「固定化され座標軸として機能するキャラクターと、キャラクターを軸に変転する世界」が成立する。

 時間が繰り返し状況が毎回変わり世界が変容するなかでは「証拠」という考え方は成立しない。「推理」も全く、見かけ上ですら成り立たない。竜騎士07自身もそれをどこかで認めたうえで、漸次、ほどほどに「ここまでは証拠として有効ということにする」といったゲームマスターによる線引きの宣言を、手抜きのためか言い逃れのためかはさておき、提示してみせはする(厳密にはレフェリーの立場で述べるわけではなく登場人物らの発言を介するのでゲームの線引きとしてはあまりに不十分)。しかし使い捨てであれ何らかのガイドラインを提示し「謎解き」というキーワードが与えられることが「ひぐらし」という場では重要である。真実を確定せず曖昧であり続けしかし推理可能であるかのような手引きを継続提供し「推理」し続けるため、謎解きという指針は求められる。情報は情報を解析する過程そのものが需要としてあり、ために維持される。しかしもちろん、その維持のためには一定の外部性が求められる。

ところで新聞は、いかにして言論機関であるのか。新聞を擁護する側も、批判し、憎悪をぶつける側も、新聞社が強く言論を作る機関であると暗黙のうちに想定しているように見える。もちろん、そういう側面もあるが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に、言論を媒介する存在でもある。

主張と広報の境目が曖昧だからこそ信頼されてきたということだ。

 つまり、なんにせよ「主張」にあたる部分は必要だ。それも、ほどよく混ざる程度の曖昧さがなければいけない。この「主張」=「推理する場という媒体からみた外部性」が、ダム建設、それをめぐる集落内の軋轢、児童虐待、役所や警察、暴力団等々の社会性を意識させるような幾つかの題材のクローズアップである。しかしその「社会性」は、最終的には日本政府の特殊部隊による極めて効率の悪い大虐殺につながる。その絵空事ぶりは何処からきたのか。どれだけ参加者が増えても「正答率1%」にすべくロジックの外へ展開を目指さざるをえなかったこと、そうした非常識で理不尽な問題についての日本人的なはけ口として「お上」があったこと。つまり「推理する場を維持し続ける」というコミュニティ内部の要求によるものに他ならない。繰り返しになるが竜騎士07の作家性は、そうしたコミュニティとコミュニティ圧力のコントロールにある。

 ネットコミュニティを維持するためマスコミの報道を疑い続け、2ちゃんねるをソースとするようなCNNの取材にマスメディアの外部性を委託する(海外メディアと話題を共有できるのであれば、喜んで海外へと「信頼の根拠」を預ける)態度と、推理ゲームの場を維持するため際限なくループを繰り返し、確定されてしかるべき事象を不確定へと押しやり続けて「お上のご意向」へと結論を預ける態度のパラレルな関係、その接点が集落丸ごとが一夜のうちに全滅するような自然災害であったこと。雛見沢大災害の真相が内閣総理大臣の決定による虐殺であったという説明が、天災を「天罰」として意思が働いているように読み込んでみせる東京都知事の発言を綺麗になぞるような、素朴すぎる原初感覚に身をゆだねるものであったこと。「リセットされると東日本大地震で死んだ万単位の人たちが生き返る」たぐいの「ゲームのやりすぎで現実感に乏しい」批判に晒されそうな感性というのは、既に身について日々の進行を管理してくれている(望むなら、そこに「全宇宙の滅亡」とか「ワルプルギスの夜」とかいった「人知を超えた天災」まかせのシナリオと「ループ」がセットで提供され続けていることを付け加えても構わない)。

 意地悪く言えば瑣末な変化の連続への想像力を失い、変化を大災害としてしか位置づけることができなくなったとなるのだろうし、好意的に述べるなら瑣末な変化を感じ取れるだけの揺るぎない日常が現実から失われているとなるのだろう。しかし、実際のところはというと、派手な映像演出が比較的簡単に提供できるようになって「瑣末な変化」を演出し味付けるのにもビッグバン級の大異変のように見せかけるのが当たり前になり、また映像保存再生の技術向上から著作権侵害という「個人の意図」による削除にでも出くわさない限りTV番組やその延長の映像投稿サイトを介し時間の経過は殆ど見えなくなった、そうした過剰な映像文化への戦闘放棄宣言が「ループ」だった、というのが正解のような気がする。*1

*1:ちなみに毎度「第一次大戦後に推理モノが流行した」という話が人づてに聞こえてくるのだが、それはどちらかというと、映像文化が優勢になりつつあった(戦場の光景がニュース映画で流された)時代、映像とオブジェクトを直結しえた感性が、コトバとモノとの関係への疑念を高めていった兼ね合いで見たほうが正しいのではないかと、漠然と思っていたりする。