続き2

そして、オタクコミュニティが市場拡大し商業化され緩やかに解体していけば、「キャラクターに萌える」ていう読み筋は薄れ消え去っていく。残ったのは「萌えキャラ」て形式だけど、その形式を曲がりなりにも壊してたのが「ひぐらし」前半だったのでした。だからこそ、コミケやノベルゲームの枠組みに強く規定され、そこに乗っかり、それを破壊する同人作品としては、二次創作オチによって作品の成立している基盤たるコミケ文化の商業的な展開(ノベルエロゲーの生業もまたコミケ文化依存体質なのは、「萌えキャラ」のキャラクターデザインの方向性からも明白)まで視野に入れて徹底的にやるところまで行かなかったら形式破壊の有効性ないよなあ、て思ってたんですけどね。「AIRの高野山が真犯人」「井上喜久子が真犯人」てのは、「それをやらなかったら作品としての意味がない」という犯人当ての形としての作品評であったつもりです。ついでに言えば、ゲームに巻き込まれない形での論評が大した有効性を持ちえない以上、推理ゲームに乗っかってみせる形でしか言及できない、ていう筋を通したつもり。

我ながらいつまでも愚痴ってばかりですが。

あ、なんか今まで面倒な書き方してたのが、すげえ簡単に書けた気がする。まあ、同じことを何度も書いてるからな。