続き

一応、念のために書いておくと、

>ゲームのプレイヤーは、この男の子と完全に同一化してゲーム空間のなかに入り込むのだろうか。

は、ゲームに親しまない人ならではの感想と言えると思う。ゲームて枠組みは、むしろ同一化されないことを前提にして作られる。通常、小説や漫画などの物語で読む窓口となるであろう登場人物の人格という枠組みを必要としないから、即物的な意味での個人の視点という枠組みが要求される。
もちろん、チェスの駒としての扱いと一個の人格を持つ登場人物としての扱いを意図的に交差させる手法にこそ、ゲームで物語を語る労力の多くが注ぎ込まれてきたのであって。当然ソレは明白に優劣や勝ち負けの規定されたゲームの枠組みを通じ「登場人物をゲームの駒として眺める」態度を要求することで成立するもので、そうした枠組みを極限まで取り払ったノベルゲームでは、もはや今まで一つのジャンルとして継続してきたというジャンルの文化性の事実をプレイヤー各人が引き継ぐことでしか、視点の交差は成立しない。その文化は「キャラクターに萌える」ていう言い方で過去に言い表されてきたんだけど、てゆかゲームシステムていう枠組みを取り払う原動力となったのは、成熟したオタクコミュニティ(コミケとかパソ通とか)との連関によって成立したキャラ萌えていうムーブメントなのだけど、そのコミュニティの外側にいる人たちには、当然ながら「キャラクターに萌える(ゲームのシステム上の視点制限からの流れ)」という枠組みと「女性ヒロインの物語として受け取る(チェスの駒に一つづつ名前をつけて人格として扱う)」という枠組みの交差を読み取ることは期待できないわけです。