もうちょっと小説のこと

 エロゲを小説のように読む、というのはあると思う。ただそのとき、エロゲはそーゆー態度において小説になってるんで、小説のようなエロゲやエロゲの形をした小説なんかではない、というのが小説を読むことだと思うの。

 ゲームを題材にして小説にするっていう形式や、なんかエロゲみたいに見えなくもない小説の形があるんだとしたら、そこではゲームの言葉やガジェットたちがゲームやってる文脈からすると完全に勘違いしてるような代物に見えさえするようなのがゲームやエロゲを書いてる小説になるんじゃないかと思うの。理想論だけど。

 んでさ、そーゆー「完全に勘違いしてやがる」ところをさしてフィクションて呼ぶんだと思うわけです。で、その勘違いな言葉たちが実際のゲームと衝突する。もちろん勘違いだからぶつかると負けるんですけど。

 西尾維新とかアレとかソレとか、どうしてもそーゆー「勘違いして負ける」の部分が抜け落ちてる気がするのね。なんか勝っちゃってる。それはフィクションなのかしら、と。むしろ東浩紀の著作を指してこれこそ小説であり創作であるって言うべきじゃなかったのか僕らは、と。

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 漫画っぽいとかエロゲっぽいと説明する評価のやり口に責任転嫁的な態度を感じるということなのかね。小説が全部をカバーできるということは漫画やエロゲで提出されたものを小説でしかないものに変換することだろうと思うのだけど、小説の側でそれを引き受ける気があるのかないのか。

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 作品や作家の側の問題じゃないのよ。作家と読者の共犯関係の問題なの。で、それは作品の言葉と全く同じことを読者が使ったり、作家の言葉と同じことを読者が使ったりするような、全く同じ言葉の合わせ鏡のトートロジーの言葉の使い方への不満であると、少なくとも一側面として言えると思うんだけども。

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 同じ言葉であるのを同じ言葉にしないようなのが望ましいわけです。

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えと、『狼と香辛料』が受けてる理由がわからない。キャラ立ちしてるからだよ、と言われればそれで終わりなんだろうけどさ。なんか、そのキャラが萌えられる代物かどうか自分では判断つかない。「キャラがかわいいから」が先に立つていう基準でいくとみんな可愛いし。しいてウホッとか反応するキャラ選ぶとすると小説のキャラよりブロガーのキャラに反応しちゃう気がする。ガチホモ? いやいやいやいや。