ゲームとか続き

 ゲームという概念を作中で弄ぶことでシナリオを切り開いていく「ひぐらし」が作品的な意味で中途半端に終わることは、今木さんや更科さんあたりの素性のいい語り手からすれば自明だ。「ひぐらし」に対して素性がいいくせにスケベ根性丸出しのひろきちゃんぐらいしか発言せず、状況論的に発言しなきゃいけない性格の更科さんが小説版という手がかりでようやく「ひぐらし」について書いた、しかもかなりつまらない語り口で、てのが全て。要するにあのへんからすれば「ひぐらし」がヒットする理由も「作品」として失敗する理由もわかってて、しかも「ゲーム」という言葉を使いたくないので沈黙するしか手がなかった。まっとうな読み筋からすれば「ひぐらし」はせいぜいタイプムーン期(2000〜2004)の追認、再確認、再施行がなされただけ、という扱いになる。僕は自分の素性の悪さを武器に出来ると踏んでたので、ひぐらし全編発表後に発言権を確保するの前提に、Mixiひぐらしコミュ(竜騎士07も書き込んでる)で「空海真犯人説を提唱してます」と挨拶するなどしといたが、自己満足な。

 ただまあ、現実は待ってくれない。政府や世論や学者の側が「世の中の役に立つゲーム」という形でアプローチを仕掛けてきてゲーム会社がそれに応答してみせるのは換言すれば「ゲームじゃないものをゲームと呼ぶ態度」であり、「この作品はゲームではありません」(ゲームじゃないけど面白いからね!)てのと表裏一体の関係にある。「ゲームと呼ぶより小説に近いような作品」であってゲームじゃないと無闇に大きい声で言うのは、割と危険だ。価格的にも流通的にも購買層的にもゲーム業界の一部として存在してナンボの現実を考慮するのみならず、社会通念的なものとの接点にも係ってくる。

 ゲームていう言い方を避けるのは、作品に対し誠実であろうとする態度として正当なもので、そこんとこは確実に押さえとかないといけない。ただ、それをお花畑の住人の言い訳にしない努力は必要とされる。具体的には今木さんや元長柾木が言葉少なめにおずおず言うのはギリギリ厳しくて、高橋直樹が言っちゃうのはキャラクター的に見てアウト、ぐらいの話になる。まぁネットの発言にそこまでの力があるわけじゃないが、そういうレベルの判断は必須。もちろん逆もまた然りで、なんでもゲーム言うなや、という判断も最低限欲しいが、こっちは俺の言える立場ではないので。