続き

つまりですね、ゲームシナリオにおいては、伏線や作劇の妙を生かした構成というのは、ありえない。というより、相殺されるモノです。

例えば、伏線がすごいと呼ばれるKanonについて語ってみましょうか。あゆの秘密が次第に明らかになっていくストーリーにおいて、序盤に思わせぶりに登場したストールの少女は伏線たりえているでしょうか。あるいは街中で襲い掛かってきた真琴と名乗る少女や、夜の学校で刃物を振り回していた3年生の先輩。彼女らについて語られるテキストは、あゆの物語でどのような象徴的役割を果たしているのでしょうか。
……ありませんよね、そんな伏線や象徴的役割。オープニングから月宮あゆシナリオのエンディングまでの流れを一つながりのテキストとして捉えた場合、途中で出てくる他のヒロインたちは伏線でも何でもない単なる余剰、清水マリコのキャラクターごとの小説であれば削除される、通常のシナリオから見れば明らかな練り込み不足の蛇足の素人仕事の余計なオマケ情報に他なりません。

それらのテキストを、まずゲームだから別シナリオがあるという了解によって脇に追いやり、次に複数のヒロインが物語展開に意味のある登場でもなく代わる代わる出てくる状況を「日常」と名づけることによって、プレイヤーたる僕たちはシナリオの構成から切り離して考えるわけです。

「同じ」時間と空間を何度も繰り返し経験する「日常」ていうのは、そういうモノです。通常のシナリオで尊ばれる、行動や台詞の意味の多重性、含みのある台詞といったものが、これらの繰り返されるゲームシナリオでは、平坦で単調なものになっていく。それを嫌って伏線を張り巡らせようとするシナリオは、ファイナルファンタジーからエロゲーまで、知るだけでも多数作られていますけど、含みや伏線を生かしきることがプレイヤーに余計な作業を強いることに繋がり、かえって洗練から遠ざかっていきます。

そのあたりの洗練されなさを「新しいリアル」と称するのは論者の勝手だとは思うけど、単に論者がつまらない作品を追いかけて、あるいは評論を気にしてしまった作り手をそっち方面に引き寄せて、メジャーから切り離された狭い世界に閉じこもる結果を導き出すだけに思えます。そんで論者のほうは「エロゲは終わったダメだった、次はライトノベルだ」で済むんですよね。美少女天皇とか。

キモチワルイよな、どう考えても。