んーと。

基本的な考え方の流れね。僕がそういう順序で考えたというわけじゃなく、僕の思うわかりやすい順序。
まず普通に言葉で語られる「物語」てのは主人公ていう人間が一人いて、その人が「死ぬ」か読者にとって「どうでもいい」領域、社会常識の範囲内の「その他大勢」に落ち着くまでを描きます。(逆に言えば、「物語」の構造の内側で描かれるテキストそのものは、「死ぬ」前および社会常識の範囲外なところを描いてるんだけど。)
で、ゲームていうか「インタラクティブなメディア」て奴にストーリーを導入する手法は無限にあって、そんなん全部相手になんてしてらんない(ゲームて呼ばれるメディアは、ゲームデザインの僅かな違いですべて異なる「メディア」となる)から、エロゲーのノベルゲームでもっとも問題となるだろう、プレイヤーキャラクターの言動をシナリオ内部で操作するタイプと、それと同じぐらいメジャーなマップ画面での選択ていうタイプをこの日記では大きく取り上げますが、前者の、読んでいくといきなり選択肢が出てきて二択か三択の形で言葉を選ばせるタイプで、物語の主人公としてプレイヤーキャラクターの男性とヒロインの女性が、「どこで終わるか」を競い合うわけです。これは、RPGでラスボスのワードナを倒してゲームの全体とするか、ラスボスを倒した後もゲームを続け、レベルを上げ続けたりレアアイテムを見つけたり、いわゆる「プレイヤーが自分で決めた目標」(適当なところで飽きる、というのも含まれる)までのプレイを含めたところでゲームの全体とするか、というのと基本的には同じです。
これが何でシナリオ内部だとそこまで深刻に影響を与えるかというと、まあ、プレイヤーキャラクターの男性の視点、行動決定と、プレイヤーの視点、行動決定が、みかけ上、重なってしまうからです。PCの男性主人公の「意思決定」は、シナリオ内で想定される社会環境や人間関係に左右されます。プレイヤーの「意思決定」は、ゲームの目標を基準に行われますから、しばしばシナリオ内の設定や常識的行動を逸脱します。「他人の家に挨拶もせず勝手に上がってタンスの引き出しをあさる勇者」状態です。当然、男性主人公とプレイヤーは対立しますが、極端に対立してしまうと「プレイヤーの決定を受け付けない主人公」になってしまいますので、一般的には男性主人公の家庭や社会環境を操作し、ゲーム目標にそぐわないシナリオ内の社会的価値観や倫理観をなるべくめだたせないようにします。プレイヤーが選択肢を選ぶ際に、異なる慣習や言語を基準にして考えるよう要請するには、シナリオでかなりの意識操作を行わないといけません。*1こうした準備で手間取ることを考え、プレイヤーにとっての読みやすさ、プレイしやすさを念頭に考えるなら、そうした意識操作のための設定説明は最小限に抑えなくてはなりません。結果として、男性主人公自身の価値観や倫理観はシナリオ上必須と思われる設定を除いて封印されることになり、また、そうした男性主人公が自身の決定で行動する際にはプレイヤーに決定権を与えられませんからシナリオで説明することとなり、男性主人公は主体的な意思の発露が抑えられ、「2Fを歩く」「「1Fを歩く」といったそれ自体は価値観を示さないような選択肢以外は、与えられた情況に受身で対応することになり、積極的な意思は「狂気」「もうひとつの人格」としてのみ発動する、ヘタレ主人公が出来上がります。*2
さて、このようにして男性主人公はプレイヤーと半ば同化するわけですが、その結果、ヒロインごとにシナリオが用意されるようなノベルゲームでは、ひとつのシナリオに二人の主人公が並存することになります。ですが、物語というのは複数主人公を基本的には受け入れません*3ので、ひとつのシナリオ内でどちらか死んだほうが物語の主人公となるわけです。
ここまでが基本です。一応、おさらい。
次に、二人して幸せハッピーエンドについて考えましょう。
続きます。

*1:この問題のもっとも批評的な手法の例として『Kanon』の川澄舞シナリオの「はちみつくまさん」「ぽんぽこたぬきさん」二択問題というのがあります。シナリオの前の部分で「はちみつくまさん」「ぽんぽこたぬきさん」という仮想言語(私的言語)の現代日本語への翻訳が説明されますので、プレイヤーはそれを覚えた上で選択肢に立ち向かうことになります。

*2:ちなみに主人公の価値観を押し付ける選択肢の典型は『Fate/stay night』のセイバールートの士郎。彼の価値観にそぐわない選択肢は即死となり、プレイヤーはいやでも士郎の価値観をトレースする選択肢を選ぶように仕向けられます。

*3:そこんとこをいかに誤魔化すかが作家の技術の見せ所なのでしょうが、ことは受け手の心理の問題なので幾ら技術を投入しても限界があります。