# もりやん 『ループはパラレルなシナリオ構造が孕む矛盾というのは、腐り姫読本の記述を読む限り、単純に「あるヒロインの攻略が他のヒロインの排除に繋がる」という矛盾だと思うのですが。これについては、主人公の自由意志を希釈するという極めて斬新な解決がなされていると思います。
「については、内容を合理化されないで先送りされた結果、まだ読んでないテキストを残したまま先へ進んでしまい」というのはよく分からないのですが、それはそれとして。
crow_henmiさんは「同じキャラクターと状況設定とルールを保有するひとつの系の中で、多様な物語可能性を「経験」することへの欲望」と表現されています。これに応える機能において「何時でも以前のシナリオを再読できる」ことは本質的に重要ではないと考えます。また、その欲望はマルチシナリオなゲームにおいては普遍的なものであり、改めて提示するようなものではなく、また先方もそのような主張はしていないかと。
いちおう、半端ながら言及したエントリを提示しておきます。
http://catfist.s115.xrea.com/wiki/wiki.cgi?page=Diary%2F2005%2D10%2D05#p0

以下、
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20051012#c1129737071
のコメントへの返答です。

「については、内容を合理化されないで先送りされた結果、まだ読んでないテキストを残したまま先へ進んでしまい」というのはよく分からないのですが、それはそれとして。

プレイヤーの進め方によって、選ばれない選択肢、読まれない文章が生じます。具体的には序盤、宮澄見里との問答で「ボケる」を選ばずに、『CROSS POINT』以降へと進むことが出来る、などです。その他にも、先の章に進むための選択肢とそれに続くセンテンス以外は読まずに先にいけるようになっています。
ここにおいて『多様な物語可能性を「経験」すること』は、先の展開へと進行することへの欲望と比較されます。多くの場合「これ以上は読む必要がない」と判断されて多少の読み残しが生じるでしょう。
2003年〜現在のプレイヤーのプレイ態度において、これらのノベル系ゲームのテキストを万遍無く網羅的に読む態度は、多数派とは言えません。どちらかといえば提供されたCGをフルコンプリートした、Hシーンの用意されたヒロインと全員寝た、複数あるEDを全て読んだ、といった形でゲームを終える人間のほうがまだしも多いのではないかと想像します。この他に5人中2、3人のヒロインのEDだけ見ただけ、1回だけEDのひとつまで通して読んで終わり、といったプレイ態度は、この種のマルチシナリオのゲームを語る際には無視されがちですが、ごく少数の態度であると断言はできません。私は最初からそうしたプレイスタイルを含めて問うことを宣言しています。
 
話を戻すと、シナリオ進行の都合によってそれまで選択肢を選び読むことが可能だったシナリオを読めなくなり、最初からプレイしなおすかセーブポイントまで戻って選びなおすかを要求する『腐り姫』および『C†C』のシナリオ構成は従来のマルチシナリオマルチエンドのそれと全く変わらず、最初からやり直すには通常のシナリオ分岐スタイルより多くの時間がかかることも考えると、『多様な物語可能性を「経験」すること』へのプレイヤーの負担をより重くしていると言うこともできる。それは言い過ぎにしても、『Kanon』型マルチシナリオマルチエンドと比較して、『多様な物語可能性を「経験」すること』の基準から見てプレイヤーの負担軽減に向けては大した変化はないとみなせます。
私はそれより、「これ以上は読む必要がない」という判断基準がどのようにして導入されているかに重きを置きます。今までにも「エロという正解」がプレイヤーの受容態度に影響を与えることは書いてきました。

エロゲー、裸を見るゲームを軸に考えた場合、見落とされがちなのが「裸を見る」という非常に強力な「正解」が作り手と受け手の両方に共有されること

裸を見る、エッチするという基盤によって、恋愛という関係性の実在が保証され、さらにストーリー伝達の確実性の向上が成立してきたわけです。例えばストーリーが枝分かれし情報に矛盾が生じた際に、「エッチできた分岐が、より正しい情報」という価値基準が保証となって、矛盾のないストーリーの伝達が行われてきました。
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050713#p1
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050729#p1

プレイヤーの視点から見た場合、『C†C』は『多様な物語可能性を「経験」すること』の上に上書きされた『プレイヤーが唯一の「正解」に辿りつくこと』を価値基準として採用しています。実際、「どのように行動しても殆どの場合が全員死亡という結末にたどり着く」という山辺美希の証言や「いつまでもこのままだと行動パターンが固定してしまう」という七香の発言、それを裏付けるかのように主人公が働きかけるまで同一の行動パターンを取りつづける登場人物たちという演出、おそらく大前提と思われる『ONE』『Kanon』形式のような「ヒロインごとのシナリオ」に対応する章タイトル『 CROSS†CANNEL 』〜『 CROSS POINT 』における桐原冬子宮澄見里佐倉霧のそれぞれのシナリオ展開を起承転結の起として扱う構成、それら全て、「同じキャラクターと状況設定とルールを保有するひとつの系の中で、多様な物語可能性を「経験」することへの欲望」に直接に対応したものとは言えません。ついでに言えば状況設定もルールも、主人公視点からの内部世界設定が説明されるのはシナリオ中盤以降の後出しですし、それも完全な説明というわけではなく、判断の余地は残される。プレイヤー視点からすればシナリオ構成の全てが判るのは全てを読み終えた後です。くどい説明ですが、要するに小説などと同じ、ということです。

「何時でも以前のシナリオを再読できる」ことは本質的に重要ではない

という指摘は、未読個所(未経験の体験)を一切残さない形式、すなわち『鬼哭街』や『ひぐらしのなく頃に』などの選択肢が一切存在しない形式と比較した際には妥当な指摘と言えますが、未読個所の発見をプレイヤーに任せている『腐り姫』や『C†C』との比較においては妥当とは思いません。
とりわけ『腐り姫』におけるプレイヤーの選択の幅、シナリオの展開の幅は大きく、非常に多彩な展開を楽しむことができますが、全ての展開をあますところなく読み終えてから先に進むようには出来ていない。それまでの進行をリセットしなければ読めない別の展開が非常に多くあります。冒頭のラジオの聴取からしてそのように出来ていますし、例えば蔵女が樹里のふりをして五樹と交わる部分(http://www.liar.co.jp/k_chara.htmlのページ1番上の画像)などは読まなくても最後まで進み「……終わりじゃない。」の選択肢が出る。
 
さて、ここで『腐り姫』のエロシーンについて言及しましたが、『腐り姫』では「妹と交わる」ことはバッドエンド的扱いであり、どちらかと言えば読んでも読まなくてもよく、エロシーンが「エロがあるのが正解」という約束事から比較的遠くまで切り離されていることが分かります。
エロシーンとシナリオ構成との関係について言うならば、選択肢と地の文章がシームレスに接続しているマルチヒロインマルチシナリオ方式のノベルゲームにおいて、エロシーンへの欲望が「正解」への指標として機能していることは、制度的な約束であると同時に大きな制約となってきました。RPGやシューティング、シミュレーション、麻雀といったその他のゲームの「報酬」としてのエロCGであればゲームシステムの外部であり、余計なルールとして全体の進行に影響を与えることはありません。ですが、選択肢というゲームシステム部分がシナリオと一体化し、さらに単なるエロCGではなく「主人公とヒロインとの心理的な流れに無理のないH」という形でゲーム攻略およびシナリオの流れと連続している以上、エロシーンが全体の構成に大きな影響を与えることは避けられません。具体的にはプレイヤーはエロシーンを拝むべく選択肢を選び、エロに繋がらない選択を避けるようになるでしょう。LVN『雫』『痕』の頃のシナリオの長さならばエロのないシナリオとエロのあるシナリオが混在するのも許容されるでしょうが、プレイ時間が長くなればプレイヤーの行動も余計な寄り道を避ける側に傾くのは不自然ではありません。実際にはシナリオの長大化とエロシーンによるシナリオへの圧力の増加はパラレルな進行と思われますが。鍵ゲー『ONE』『Kanon』の「エロシーンを見なくてもハッピーエンドにたどり着く」「エロシーンを見すぎるとバッドエンド」といったエロゲー右派とか左派とか言ってる人たちが問題視する部分というのも、エロシーンの圧力がプレイヤーの選択を介してシナリオに影響を与えてしまうというジレンマとの戦いで生じたものと見ることが可能です。エロシーンはプレイヤーキャラクターによるヒロインの事情への大幅介入の象徴ですが、その状態はマルチシナリオマルチヒロイン形式、ヒロインを物語の主人公として設定したシナリオ進行の破壊に繋がります。これは「エロシーンがないほうがより自然」という理由ではありません。書かれたシナリオが物語として成立するための基盤を破壊するという意味です。理由は簡単で、「正解」という概念が物語の自立性を覆すからです。エロシーンが「正解」という概念を呼び込み、「正解」の概念がノベルゲームにおいて長く複雑なシナリオの実現を可能にし、しかし「正解」という概念に囚われるがゆえに物語は崩壊のジレンマに立たされる。
「選択肢と地の文章がシームレスに接続しているマルチヒロインマルチシナリオ方式のノベルゲーム」のエロバージョンは、成立時点から安定性を欠いています。これがエロ抜きとなったコンシューマーギャルゲーにおいてどう進展したか、という話が『 My Merry May 』から『シンフォニック=レイン』に繋がっていくのが今後の予定ですが、今回はそこまで行きません。
話を『腐り姫』『C†C』に戻しますと、男性キャラクターの姿が目に付きます。山鹿青磁および桜庭浩は女性ヒロイン達と同等の、単独シナリオに相当する扱いを受けていますが、これはプレイヤーのエロシーンへの圧力を回避できたからに他なりません。すなわち、「プレイヤーの意思決定を無効化する」というよりは、選択肢がエロゲーというフォーマットと重なり合うことで生じた「エロという正解」を解消するために、別の「正解」を用意することでエロと「正解」とを切り離したのが『腐り姫』と『C†C』の形式の達成点と見なし得る。そこで次に問題となるのは、その用意された「正解」が何を意味し何をもたらすかという話になるのだけれども、時間がないので後日。参考までにこちらにリンクしときます。私の書く「正解」とリンク先の述べる「正しさ」とがそのまま重なり一致するわけではありません、念のため。

パラレルなシナリオ構造が孕む矛盾というのは、腐り姫読本の記述を読む限り、単純に「あるヒロインの攻略が他のヒロインの排除に繋がる」という矛盾だと思うのですが。これについては、主人公の自由意志を希釈するという極めて斬新な解決がなされている

日記の文章を参照する限り多分気付いておられると思いますが、「主人公の自由意志」なんざプレイヤーにとっては全く必要ありません。どちらかといえばプレイヤーの意思に従順に従う将棋の駒のような存在であるべきです。
 
あと、

トラウマ解消劇を物語の中心に据えるなら、攻略されなかったヒロインはトラウマを持ち続けることになる。『Kanon』なんか、消滅する。
http://catfist.s115.xrea.com/wiki/wiki.cgi?page=Diary%2F2005%2D10%2D05#p0

http://imaki.hp.infoseek.co.jp/r0210.shtml#6
http://imaki.hp.infoseek.co.jp/r0210.shtml#7
http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#2
http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#3
http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#5
http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#9
あたりをどうぞ。