八尋 茂樹『テレビゲーム解釈論序説―アッサンブラージュ』現代書館

その2。その1はid:tdaidouji:20050831#p1にて。
一応RPG研究のところまで目を通しています。けど、やっぱり即効性実用性には欠ける。
全体の印象としてはid:hiyokoya:20050822#p1の短評の通りだと思う。何と言うか、ここまでやったという行動の実績をもってしてゲームについて軽々しく語ることへの牽制となっているけれども、一方で切り口が鈍く「なぜその手法で語るのか」が明瞭ではない。
文字による記述が多いからテキスト文脈のみを取り出して研究できるわけではなくて、まあ例えば第三章「テレビゲームの中の<子ども>言説」において、筆者はゲームの中に登場する登場人物としての子どもの台詞を収集・分類し、RPGシナリオの登場人物の子どもは「いい子・けなげな子」「純真・無垢な子」「弱い子」の3つに分類でき、「元気な子」というイメージが見当たらず近代の規範的子ども像の流れに一致すると説明する。こういう説明を見ると僕あたりはRPGの村の中心の広場で無限ループ状態でグルグル走り回っている子どもキャラの存在を思い起こし、彼らに話しかけても「きゃっ きゃっ」と話しかけてくるだけであることなどを挙げて、台詞を経由せず視覚面で「元気さ」を表現している点がテキストのみを抜き出して研究するという手法によってスポイルされていないかとツッコミを入れてしまうのだけれども、まあ、筆者もそのあたりの抜け落ちは覚悟を決めて、自分の領域の範囲内で語ってると思われる。
そのあたりの抜けの目立つのが第二章のエロゲー研究で、そもそも女性向け恋愛ゲームの調査対象には『ときめきメモリアル Girl's Side 』が入っているのに男性向け恋愛ゲームの調査対象に『ときめきメモリアル』や『 True Love Story 』などの続編のようなコンシューマー機向けの恋愛物が殆ど入っていない。テキスト量の多いノベル物を中心として取り上げているためにセレクトが偏ったと見做せなくもないが、そのわりに『ときメモGS』を含む「乙女ゲー」の分類とノベルゲー中心のエロゲーとの差異に男女の意識の違いを見出してしまうなど、かなり不用意なことをやっている。
そうした形態の違いの無視は論全体に及んでいて、例えばP48、「欲望媒体の不在」の項目で男性向けのノベルゲームにライバルが欠落していると指摘し、注において最近の傾向として「君が望む永遠」「僕と、僕らの夏」といった例外が出てきている、と指摘するのだけれども、2ちゃんねるエロゲー板で「寝取られ属性」の言葉が定着している程度にはエロゲーに「ライバル」は存在しているし、一対一の関係の代表例だろう鍵ゲーのスタイルが「プレイヤーがヒロインを攻略する」、ゲーム性の高いナンパゲーの流れから来ていることを考えれば、プレイヤーの「欲望媒体」は同じゲームをプレイする他のプレイヤーである。またゲームプレイヤーとしての態度を受け手に求めるゲームのシステム、インターフェイスがそうしたライバルの存在を前提とする在り方を呼び込むことを考えれば、インターフェイスとして機能するシナリオ内の男性主人公の存在こそがプレイヤーをヒロインへと駆り立てる欲望媒体・ライバルの現前した形であるとも言える。
君が望む永遠」や「僕と、僕らの夏」などでの「欲望媒体」の登場は、ノベルゲームという形式が定着するに従って、あるいはヒロインに声を入れるのが当り前になるにつれ、主人公の名前がデフォルトとなり、あるいはイベントCGなどで主人公の顔が露出し、男性主人公以外の視点による物語の語りが頻出するようになり、難易度という言葉が意味をなさなくなるほど選択肢が明瞭になる、そうした「ゲームから物語へ」の緩やかな変化の過程で、「プレイヤー・男性主人公・ヒロイン」の三角関係がプレイヤーが脱落することで成立しなくなり、改めてシナリオ内でライバルを設定しなければならなくなったため、と考えるべきだろう。
まあ、大体そんな感じ。ゲームを扱いながら、それがなぜ「ゲーム」と呼ばれ「ゲーム」として流通し「ゲーム」として消費されているのか、という部分を通り越してテキスト内容の他のメディアとの差異を取り上げてしまっているあたり、あまり誉められない。他メディアを引用する際は違いより同じところに目をつけてあげるべきだと思います。