6月4日追記。

質問しなかったけど気になってたのが、id:hally:20051102#p1で検討してる対象のJuulの説明をする際に、

第三に画期的な点は、ゲームはメディアではないと断言していることです。メディアでなければ何なのか? ジュール氏は大胆にも、人間の同意のもとで生み出される実体のない状態機械 (オートマトン) である、と主張しているのです。人間はもともと無自覚に、ゲームをチューリングマシンに近いものとして作り上げていた、だからゲームとコンピュータはかくも相性がいい、というわけです。

と言ってた「メディア」と「ゲーム」の差異の捉え方は今回の発表ではどう考えてるのか、という点。
あともう一つ、A Clash between Game and Narrativeという別の論文で、

インタラクティヴ性と物語性は根本的に水と油の関係であるという主張を展開しています。

という点。
とくに後者は「コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会」なんだから引き寄せて説明してくれたらなあ、と思ったけどやらなかった。上のJuulの論文を相手に検討するという内容で発表を一度やってくれないかなあ。
さておき、パネリストの人たちも会場の人たちも、あまりそーゆーゲームの外側とゲームとの対比みたいなことは興味ない様子だったので、そこまで言うのも何だかなと思って言わなかった。
 
で、個人的には「メディア」と「物語(ナラティブ)」と「遊び」の違い、てのは最低限度確認しとくべきだろうと思う。
外から見て同じ行動が「遊び」だったり「物語」だったり「メディア」だったりする、それは主観の捉え方による。
だから、その違いを定義しておけば、外から見て「ゲーム」でありながら「物語」であるとか、主観的には「遊び」だが外から見て「映画上映(メディア媒体)」に見えるとか、そーゆーふうな言い方が出来る。
 
例えばミニマムノミックにおける「ルールの提案」。ここでの「ルール」は、実は「メッセージ」と捉えられないか、みたいなこと。つーかミニマムノミックていうお題自体がそもそも言語ゲーム研究あたりの思考実験なんじゃないか。
あるいは、『ヒカルの碁』『哭きの竜』『月下の棋士』あたりで対局を通してコミュニケーションして「あんた、背中が煤けてる」つって相手を見抜いてみたりするとき、囲碁や麻雀や将棋は「遊び」としてじゃなく「メディア」として機能している、とか。
 
そういうふうに定義ごとに機能を切り分けていけば、「ゲームはあれもできる、これもできる」みたいな言い方から離れることが出来て、少しは見通しが良くなるはず。
関連して、個人的にid:ityouさんと話してて、まあ、当り前のように「コンピューターゲームのデザインを考える際は、やっぱりボードゲームから気付かされるのが多い」ていう話が出て、これ自体は多数派の意見だと思うんだけど、これを上のほうと重ね合わせて、多人数でプレイするボードゲームは、
「ルールで対戦相手をコントロールする」
=「ルールという発話を相手に投げかけて、こちらの予想範囲内の回答をもらうのを繰り返す」
=「ルールの設定とは、少ない言葉で効率よく行う、会話のキャッチボールである」
=「ゲームデザイナーとプレイヤーとの意思の疎通の見通しの良さを考える上で、コンピューターゲームからデザインを考えるより、ボードの多人数ゲームからデザインのアイディアを得るほうが距離が近い」
という話になったりしないかなあ、と妄想した。